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もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう

東洋経済オンライン / 2024年12月14日 17時0分

夫 食べ応えの定義にもよるよね。

妻 手抜きをしているのは、誰? 買い物しているあなた?

夫 どちらも?

妻 ほかの具にするってこと?

夫 いや、やっぱりお味噌汁じゃなくて、鶏がらスープにして、参鶏湯(サムゲタン)風にしたらどうかな?

妻 参鶏湯にするなら、結局、メインを変えないと合わない。

夫 メインは、なんだっけ?

先にあげた妻と私の日常会話でも違和感はない。というよりも、こういうやりとりを20年以上続けてきたから、私にしてみればリアリティがあるのだが、みなさんにとっては、作り話に見えるかもしれない。

ただお伝えしたいのは、「そもそも」論、とは、「そもそも」何なのか、私自身がわかっていない、そのボケぶりにほかならない。

このため、私を含めて「そもそも」論だとは思っていないし、「議論」ともとらえていない。日常会話そのものなのである。

京大生を特徴づけるとすれば、ふだんの会話に違和感を覚えない、無頓着さ、というか、鈍感さといえよう。メンタルが強い/弱い、以前に、あまり考えていない。誰に何を思われているのか気にしない。「概念」や「定義」について、堂々めぐりで議論を続ける。

大学1年生のとき生まれて初めてのアルバイトをしたのだが、「上司は仕事ができない」と友人に話した。軽い世間話(愚痴)のつもりで、何も深い意味はなかった。

友人は、「『仕事ができる』って、どういう意味?」と返答してきた。いや、もっと強く、「その『仕事ができる/でけへん』って、誰が、どうやって決めるん?」というニュアンスで友人が反応した覚えがある。

これに対して私は気楽な会話もできないのか……と腹を立てたわけではない。「言われてみれば確かに……」と、納得し、あらためて疑問を抱いたのだから、私もまた、こうした会話に染まっていた。

染まっていたというよりも、染まるような素質を「そもそも」持っていたから、京大を志望したし、入った後も、同じような会話をためらわず続けていた。

「そもそも」論を90分、時間いっぱい考えたゼミ

「そもそも」論で言えば、私が大学のころに受講した間宮陽介先生(1948年〜)のゼミを思い出す。日本銀行によるゼロ金利政策をめぐって、「金利って何?」とか、「なんで貨幣には価値があるの?」といった、禅問答というか、「そもそも」論を90分、時間いっぱい考えていた。

もったいないことに、ゼミへの参加者は5人もいなかったし、そのうち1人は博士課程の方だったので、勝手な発言をしても許された。少人数なので、許す以外の選択肢は、間宮先生にはなかったのだろう。

間宮先生は、『丸山眞男 日本近代における公と私』(筑摩書房、1999年)や『市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか』(中公新書、1999年)を出されたばかりで、朝日新聞の論壇時評の執筆者を担当されているころだった。

日本のリベラリズムだけではなく、知識人の代表ともいえる丸山眞男(1914〜1996年)を読み、当時はまだまだ確固たる権威だった朝日新聞で健筆を振るう。間宮先生はそんな、いわば「偉い」先生だったものの、学生に対してはものすごく親切だった。いや、私が厚かましすぎて、間宮先生の権威を感じ取れなかったのかもしれない。

それでも、時間を気にせずに、利子をはじめとして、中央銀行の役割、政府の政策について、根本から考える経験は、いかにも京大だった気がする。

鈴木 洋仁:社会学者

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