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道長の子「藤原頼通」51年の長期政権築けた背景 期待を注がれる一方で、荷が重かった部分も

東洋経済オンライン / 2024年12月15日 7時50分

なんとも気まずい空気が流れるなかで、周囲の公卿たちは「道長の後継者はやはり頼通だ」と確信を持つことになった。

「散楽のよう」と会議の進行をバカにされる

そんな頼通が実際に、道長から摂政の座を引き継ぐことになったのは、寛仁元(1017)年3月のことだ。道長は孫の敦成親王が後一条天皇として即位すると、待望の摂政となるも、たったの1年あまりで嫡男の頼通にその座を譲っている。

道長がまもなくして体調不良に陥ることを思うと、自分が健在でサポートできるうちに後進に譲っておくのが、一族の繁栄につながると考えたのだろう。また、なるべく早く頼通にリーダーとしての自覚を促す意味もあったに違いない。

頼通は数え年で26歳と史上最年少で摂政の座に就くことになったが、いきなり疫病、飢餓、洪水に見舞われる。頼通が摂政となって4カ月後の7月に鴨川で大洪水が起きると、実資は「後一条天皇の徳が及ばないせいか、あるいは、摂政になったばかりの頼通の不徳のせいだろうか」と日記につづっている。

当時、天災は為政者に天が下した罰だと考えられていた。頼通としても出ばなを挫かれる思いがしたことだろう。それでも政務で挽回できればよかったが、父・道長の存在が大きく、頼通にはまだ荷が重かった。

8月に官職を任命する「除目の儀」が行われると、頼通は宇治にいる道長に使者を出すなど、父を頼っている。11月の除目でも、頼通は家司の藤原惟憲を道長のもとに遣わして、判断を仰いだという。

それも数回に及んだことから、バタバタぶりについて藤原資平は実資に「去る夕方の官職任命の儀式は、散楽のようでした」と報告する始末だった。頼通は必死に対応していたのかもしれないが、この惟憲が道長と頼通の間を往復する間に、人々に情報を漏洩していたというから、弊害は大きかったといえよう。

人材育成のタブーをやらかしまくる道長

しかし、頼通が摂政でありながら、周囲から呆れられるような有様だったのは、父で前任者である道長の振る舞いにも問題があったように思う。

例えば、頼通が摂政となって数カ月の8月には、頼通が「明日は休日なので審議を行わない」と周知したにもかかわらず、道長が当日になって「今日に審議を行うことは決定した。休日の開催を避けるべきではない」と言い出して、周囲を混乱させている。

方針がコロコロ変われば、下で働くものは大変だ。藤原資業は実資に「大小の事は、摂政は自由にし難いのです」とこぼしている。これでは、頼通の言うことなど誰も聞かなくなってしまう。道長が実権を振るうのは、息子から頼られたときに限るべきではなかったか。どうしても口を出したいときは、せめて1対1で指導する配慮は必要だったように思う。

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