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道長の子「藤原頼通」51年の長期政権築けた背景 期待を注がれる一方で、荷が重かった部分も

東洋経済オンライン / 2024年12月15日 7時50分

また、治安3(1023)年には、頼通が摂政となってすでに6年が経とうとしていたにもかかわらず、道長は頼通をしかったという。『小右記』には次のように書かれている。

「昨日、多くの人の前で、禅閤が関白をおしかりになった」

(昨日、衆中に於いて、禅閤、関白を勘当せらる。)

「禅閤」とは道長で、「関白」は言うまでもなく頼通のことだ。

もはや頼通は表立って苦言を呈されることはない立場である。それだけに、道長としても「父である自分が言わなければ」という思いがあったのだろう。

しかし、「衆中に於いて」とあるように、多くの人の前でしっ責することは避けるべきだった。場は引き締まるかもしれないが、下に従う者は頼通ではなく、道長の意向を重視するようになるからだ。

頼通が頼りなかったのは、道長がそれだけデキる男だったからではないだろうか。「名選手、名監督にあらず」とはよく言ったものだ。

それにしても、道長はなぜ頼通をしかり飛ばしたのか。

その理由について『小右記』では「懈怠の人々を勘責せられざる事」とある。怠惰な太政官の官人をしからなかったことに、道長は怒りを露わにしたのだという。他人に厳しいことをいうのが、苦手だったのかもしれない。

優柔不断ながら50年以上も関白を務めた

また頼通には、優柔不断なところもあったようだ。道長が万寿4年12月4日(1028年1月3日) に亡くなると、朝廷の権勢は頼通に集中。長元9(1036)年には後一条天皇が死去し、同母弟の後朱雀天皇が即位する。頼通は引き続き関白として影響力を保つが、態度を決めかねる場面もあったようだ。

天台宗のなかで対立が起きて、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)が分裂したときも、どちらの要望を聞いても、事を荒立てることになるため、頼通はどっちつかずの立場だったという。

頼通と後朱雀天皇との間で「決めてください」「いやいや、そっちが」と責任のなすり付け合いが行われている。道長が生きていれば、すぐさま決めてしまいそうだが、これもまた頼通の個性なのだろう。

父の道長だけではなく、自身の姉であり、後一条天皇の母である彰子からも何かと口出しされたことを思えば、リーダーシップを発揮するタイプでなかったからこそ、長くやれたのかもしれない。

公卿の藤原資房が記した日記『春記』では「恵和の心の持ち主」と称された頼通。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇と三朝にわたって摂政・関白に就いている。治暦3(1067)年に76歳で辞職するまで、実に51年も政権を維持することとなった。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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