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87歳で死去「道長の娘・彰子」及ぼす強大な影響力 藤原実資から「狂乱の極み」と批判されたことも

東洋経済オンライン / 2024年12月22日 8時30分

けれども、実資がこれだけ厳しく批判したのは、この頃から、頼通が不在時には自分が代理を務める立場となっていたことと無関係ではないだろう。「民がどう思うか」と、かつて彰子が道長に厳しい視線を注いだような目で、実資は彰子のことを見ていたのかもしれない。

二人の皇子に先立たれてしまう

長元9年4月17日(1036年5月15日)、彰子は息子・後一条天皇に先立たれてしまう。『栄花物語』によると、後一条天皇もまた道長と同様に、口が渇いて水を大量に飲んだという。糖尿病だったのだろう。

後一条天皇のもとには、彰子にとっては妹で、道長が倫子との間にできた3女の威子が嫁いでいた。皇女は生まれるものの、皇子が誕生しなかったため、威子は肩身の狭い思いをしていたが、後一条天皇は優しく慰めたという。

『栄花物語』によると、後一条天皇が若くして亡くなったことで、彰子は妹の威子と嘆き悲しんだ。彰子はこんな歌を残している。

「一声も君につげなんほととぎすこの五月雨はやみにまどふと」

(一声だけでも、亡き我が君に伝えてほしい、ほととぎすよ。この五月雨で、子を思う闇に惑っていると)

そのうえ、悲嘆のあまり食欲不振に陥った威子までもが、38歳の若さで亡くなってしまった。彰子はたて続けに家族を失うことになった。

後一条天皇のあとには、弟で28歳の敦良親王が第69代・後朱雀天皇として即位。彰子が引き続き、政務への後見を務めたが、即位して10年足らずの寛徳2年1月18日(1045年2月7日)、37歳で命を落としている。

彰子は2人の息子(後一条天皇・後朱雀天皇)に先立たれたうえに、永承元(1046)年正月には、時に辛口でありながらも彰子を高く評価していた、右大臣の実資が90歳で没している。何とも心細い思いがしたに違いない。

政治力を発揮し87歳まで長生きをした

後朱雀天皇は道長の6女である嬉子との間に親仁親王を、三条天皇の皇女・禎子内親王との間に尊仁親王をもうけている。のちに親仁親王が第70代・後冷泉天皇として即位。さらにその後は、尊仁親王が第71代・後三条天皇として即位する。

孫にあたる後冷泉天皇のときも、後三条天皇のときも、后の決定には彰子がかかわっていたというからすさまじい。後三条天皇のあとは、第1皇子が白河天皇として延久4(1073)年に即位。彰子が亡くなったのは、その翌年、承保元(1074)年のことである。

道長の姉である詮子に次ぐ2人目の女院として、長きにわたって国政を陰に陽に支えた彰子。87歳でその激動の生涯を閉じることとなった。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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