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韓国「本当の」戒厳令を経験した日本人の回想 1970~80年代、軍人によって抑圧された社会のリアル

東洋経済オンライン / 2024年12月22日 12時0分

こんなこともありました。私が日本から持ってきたマルクス経済学の本をある教授に貸しました。日本に留学経験のある先生だったと覚えています。

返された時、「宮塚君、君が私にこの本を貸したことは絶対に秘密にしてくれ」と言われました。資本論など社会主義、共産主義にかかわる書籍は禁書でした。見つかるとたいへんなことになります。

とはいえ、大学の教授や知識人の中には、左派思想の本などを秘密裏に読んでいる人がかなりいたのも事実です。

――留学生活も最後のほうになって大事件が起きます。1979年10月の朴正熙暗殺事件、そして1980年5月の光州事件です。

・朴正熙暗殺事件=1979年10月26日、朴正熙と大統領府警護室長だった車智澈(チャ・チチョル)が、KCIAの金載圭(キム・ジェギュ)部長によって殺害された事件。この事件を処理する過程で、当時軍の保安司令官だった全斗煥が台頭してくるようになった。

・光州事件=1980年5月18日から同月27日ごろにかけて、韓国南部・光州市で発生した軍事政権に対する市民たちの蜂起。前日の5月17日、全斗煥らによるクーデター(517クーデター)が知られると全国で軍政反対・民主化を要求するデモが発生するなど混乱したため、1979年に釜山市限定で布告されていた戒厳令を全国に拡大布告された。とくに金大中が地盤の光州市や全羅道では戒厳令拡大への反発が強く、市民と軍の銃撃戦にまで発展し、150~200人超の死亡者を出したとされている。

「日本語を話す気になれません」

戒厳令が布告された当時の新聞をはっきりと記憶しています。新聞の見出しに印刷された「戒厳令」はハングルではなく漢字でした。漢字で印刷された「戒厳令」という文字は、ハングルよりも余計におどろおどろしく感じました。

光州事件が発生したころ、ある銀行からの依頼を受けて、日本への赴任を予定している行員6人に合宿形式で日本語を教えていました。

光州事件に対して当局は厳格な情報統制を行っていましたが、それでもテレビでは関連情報が放送されていました。6人はテレビに釘付けでした。そのうちの1人が「宮塚先生、きょうは日本語を話す気になれません」と言ってきたのです。

あまりの混乱ぶりに気が気でなかったのでしょう。結局、6人は一時帰宅してしまい、私だけが教室のある研修所で寝泊まりするという笑うに笑えない状況にもなりました。

――それから約7年後の1987年6月に、韓国は民主化を達成します。

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