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島田紳助16年ぶりの告白「M-1作った本当の人物」【再配信】 今初めて明かされる、M-1グランプリ誕生秘話

東洋経済オンライン / 2024年12月23日 0時10分

「M-1グランプリ」の原点となった「漫才プロジェクト」のクリアファイルとチラシ(写真:編集部撮影)

【今年で20回目を迎えたM-1グランプリ。こちらは2023年11月15日に公開した記事の再配信です。】

2011年に表舞台から去った島田紳助氏には、「M-1」についてずっと言いたかったことがあった――。

元吉本興業の谷良一氏が「M-1グランプリ」の立ち上げについて初めて書き下ろした『M-1はじめました。』の帯を島田氏にダメもとでお願いしたことから、熱い再会ドラマにつながった。谷氏が番組プロデュースの現場を離れて以来、16年ぶりに言葉を交わした2人、それぞれの思いとは。

『M-1はじめました。』から「谷と作ったM-1(島田紳助)」、「あとがきのあとがき(谷良一)」を、一部編集のうえ全文掲載する。

本番前の楽屋に訪ねてきた谷

「谷と作ったM-1」 島田紳助

【写真を見る】第1回M-1グランプリ開催を伝える2001年当時の新聞記事

谷が、読売テレビの本番前の楽屋に訪ねてきて、会社から漫才を盛り上げろと言われたのですが、なんか知恵貸してくださいという風な会話から、全てが始まりました。

私の中で、2つの思いが心の中にあり、本番前の短い時間、谷の話に乗りました。

ひとつは、私は18歳で弟子になり漫才の道に進むのですが、漫才をずっとやる気はなく、夢は東京で司会者になること、だから漫才は最初から10年でやめる計画でした。実際は8年でやめたのですが、コンビを組むときに相方の竜介にも10年しかしないと話してのコンビ結成でした。

ですから、自分の夢が叶っていくと、漫才に対して利用したような罪悪感がいつもありました。

そしてもうひとつは、50歳で引退する、そして違う人生を楽しむという計画があり、心残りを全てクリアーしたい思いがありました。

予選からはじめて最後は賞金1000万

そんな時、谷からの漫才を盛り上げたいという言葉で、こんな物を作ろうと話をしました。

普通の人間なら、そうですねーと相槌打って終わるのですが、谷はいつものように熱く語るでもなく、淡々と内容を質問してきます。

演者が審査に納得する戦い、だから審査員は点数をその場で公開する、これも審査員が笑いのセンスを視聴者に審査されるわけですから、やってくれる人間がいるか?

そして、高校野球のように、予選からはじめて、プロセスから見せて盛り上げる。

最後は賞金を1000万。

新人の漫才の大会で、1000万なんて当時は超破格でした。

そんな私の提案を、谷は1人で動き、1人で作り上げていきました。

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