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立川談志「殺しはしませんから」弟子の親に説く訳 「伝説の落語家に弟子入り」とはこういうことだ

東洋経済オンライン / 2024年12月27日 11時40分

それが「殺しはしませんから」です。

昭和6年の満州事変の翌日生まれの苦労人の父親は、この一言で、一発で談志を信じ切ってしまったとよく述懐していたものでした。

「殺しはしない」、つまり、「生殺与奪の権利は師匠側にあるが、最低限の生命は保証する」という高らかなる宣言だったからです。

その日以降、私と談志との関係は、大学時代に談志の落語に接して以来の「ファンと落語家」の関係から「弟子と師匠」との関係へと切り替わりました。

「徒弟制度」がもつ意味

ここからが落語界の特殊性にもつながるのですが、たとえば漫才やコントならば、サンドウィッチマンさんの大ファンだからといって、弟子になって同じ漫才をやるという選択肢はないはずでしょう(ありえません)。

漫才が「型を壊す」ことで進化してゆくものならば、落語は「型を踏襲する」ことで命脈を保ってゆくものです。両者は同じ「笑い」でも、枝分かれしてゆく宿命のものなのです。

無論、以前は漫才にも形がありました。形を否定してブレークした島田紳助さんあたりを起点として、さらにはダウンタウンさんへという流れの中で、従来型の徒弟制度を捨て去って、養成所へと切り替わってゆきました。養成所システムの一般化は「徒弟制度」の否定につながっていったのです。

つまり「弟子入り」とは、「形や型を踏襲するために編み出されたシステム」なのです。師匠が持つ「カタチ」に惚れこんだ弟子が、そのフォルムを身につけようとして飛び込んでゆく」のが、「弟子入り」のダイナミズムです。

そしてそこには、一般企業のような「労働力の対価」としての報酬はありません。

いや、ないのが当然なのです。弟子は師匠にとって、利潤を発生させる労働者などではないのですから。

さらに、落語界には徒弟制度を裏打ちし、補強するかのような「身分制度」があります。

厳然とあった落語界の身分制度

入門が許可されたばかりの若者はまず「見習い」という立場になります。「まだこいつは信頼できない。すぐやめるかもしれねえし、楽屋泥棒するかもしれねえ」という感じでしょうか。

「まあ、大丈夫だ。楽屋泥棒はしねえだろ」という最低限の信頼が置かれて初めて「前座」になります。前座は師匠の付き人でもあり、落語会では文字どおり「前に座る」のごとくトップバッターを務めます。「前説」みたいな感じでしょうか。

落語はやらせてもらえますが、いちばんの任務は落語をやることではありません。その落語会が円滑に運営できるよう、出演者の着物を畳んだり、お茶を入れたり、座布団をひっくり返したり、出囃子を流したり、出演者の使いっ走りをしたりと、身も心も使いまくるのが任務となります。

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