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戦国最強「武田信玄」天下取れなかった地理的要因 地理的視点でみると、ある事情が浮かび上がる

東洋経済オンライン / 2025年1月23日 16時0分

しかも、武田信玄による増税は、領民の逃亡を招いてしまったとも言われています。このように、武田信玄は、自身の領地に大きなハンディキャップを抱えていたことがわかります。「武田信玄は強かったのになぜ天下を取れなかったのか」を考えると、地理的な要因が浮かび上がるわけです。

逆に、織田信長はどうして天下統一一歩手前まで行けたのでしょうか?面白いことに、「戦国の3英雄」、つまり天下統一直前まで行った織田信長と、天下人になった豊臣秀吉と、徳川幕府を開いた徳川家康の3人は、1つ共通点があります。

それは、全員が現在の愛知県にルーツを持っているということです。さまざまな戦国武将によって戦乱が繰り返されていたこの時期、誰が天下を取ってもおかしくない状況でした。しかしなぜ、この地域に天下人が集中しているのでしょうか?

結論から言うと、愛知県は陸の交通・海運の要所で、経済が発展しやすい地域だったということが考えられます。

西に行けば京都・大阪といった政治や商業の中心だった街があり、東に行けば幕府が置かれていた鎌倉や、鎌倉幕府を牛耳っていた北条氏がいる小田原がありました。

加えて、近くには伊勢湾もあります。この伊勢湾では、船による交易が盛んに行われていました。このように、交通・海運の結節点にあったことで、経済的に発達しやすかったわけです。

実際、織田信長が天下統一一歩手前まで行けたのは、経済的に成功したからという側面が大きかったと言われています。織田信長の父である織田信秀は、勝幡城の城主として、津島一帯を支配していました。津島は港町であり、海運が盛んでした。港の津料を徴収したことで、信秀は巨大な富を得たと言われています。そして信長は、こうした経済の動きを目の当たりにしながら育ったとされています。

経済を発展させていった信長

織田信長は、軍事的な成功を進めていきながらも、積極的に経済的な要所を手中に収めていきます。近江は生産性が高かったと言われていますし、大津は琵琶湖水運の要衝でした。

またその後手中にした堺は「商人の街」で商売が盛んなうえに、瀬戸内海の交易の要所でもありました。この堺で、戦いで使う多くの鉄砲と火薬を手に入れることができたと言われています。

織田信長はそれらの経済的な要所を押さえつつ、経済が活性化するような政策をたくさん行いました。

「楽市楽座」で誰もが市場で自由に商売できるようにする規制緩和を行ったり、「関所撤廃」で今まで商品に上乗せされていた通行税をなくすことで、商売を活性化させていきました。

経済的な要所で、経済が活性化する施策が数多く行われたことで、信長の領地はどんどん豊かになっていきました。そしてその経済力を背景にしていたからこそ、織田信長は強かったわけですね。

このように、日本史の目線だけではなく、地理的な観点で戦国武将たちのことを見てみると、全然違った見方をすることができます。みなさんぜひ参考にしてみてください。

宇野 仙:駿台予備校地理科講師

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