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日本人なら懐かしい「歌の昭和史」総ざらい(後編) 昭和が遠のく中、矢沢永吉は今も現役で…

東洋経済オンライン / 2025年1月26日 12時2分

ではこの時代、ブルジョア的でもなく、貧乏くさくもない楽曲はなかったのか。

もちろんこの時代のヒット曲は、ブルジョア的か貧乏くさかっただけではない。フォークの流れをくむロック・シンガー、忌野清志郎の数々の楽曲があるではないか!

『中央フリーウェイ』と同じ昭和51年にリリースされた初期の代表作『スローバラード』には、その可能性の全てが凝縮している。

昭和26(1951)年生まれ、平成21(2009)年に58歳でガンにたおれた清志郎。彼の最初のヒット曲は、昭和47(1972)年のRCサクセション時代の『ぼくの好きな先生』だった。高校時代の美術の教師に捧げられたオマージュだ。

「才能のない奴は大学へ行け」の名言を残して、迷うことなく彼はプロのミュージシャンへの道を突き進んだ。その死を惜しんで、元都立日野高校の「ぼくの好きな先生」から、『朝日新聞』に追悼コメントが寄せられた。

昭和の最後を飾ったヒット曲

そして昭和の最後を飾るヒット曲は、なんと言っても長渕剛『乾杯』だ。最初に発表されたのは昭和55(1980)年だったが、昭和63(1988)年に再リリースされ大ヒットとなった。

同年、アイドル系では、中森明菜『TATTOO』とともに、少年隊の『ふたり』がヒットした。

少年隊は、言わずと知れた旧ジャニーズ事務所の所属。世を騒がせた創業者のジャニー喜多川は、昭和史と深く切り結んでいる。父親が高野山米国別院の布教師で、ロサンゼルス生まれ。二重国籍を所持しており、戦後は朝鮮戦争にも従軍。美空ひばりのアメリカ公演が、真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院で開催されたとき、ステージ・マネージメントを担当、芸能界との接点ができた。

ジャニーズ騒動の際に、一度だけ記者会見で顔を見せたジャニーの姪の藤島ジュリー景子は、実父が藤島泰輔。平成時代の天皇だった上皇とご学友(学習院)で、その著書『孤獨の人』は、高校3年の皇太子を描いて昭和32(1957)年に映画にもなった(西河克己監督)。

何とも因果な、昭和歌謡史の裏面だ。

さて、ニューミュージック以降、現在のシティ・ポップに至る流れをおさえておこう。

男性では来生たかお、南佳孝、山下達郎、女性では吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子、竹内まりや。これらの歌手の楽曲に共通のシティ感覚は、GDP世界第2位を背景に、東京が国際的に最先端モードにあった、多分にバブリーな時代の脱日本感を基調にしている。その意味で、往年の村上春樹の小説世界とも相通じるものがある。

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