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32年のベテラン老中「松平武元」過労で死去の悲劇 台頭著しい「田沼意次」の時代へと突入する

東洋経済オンライン / 2025年1月26日 8時0分

だが、このときの意次はまだ老中の一人にすぎず、権勢を振るっていたわけではない。日光東照宮の社参には、同じく老中の松平輝高や松平康福も随行。そして、老中首座の松平武元も、意次の倍以上の先備えでお供に加わっていた。

松平武元は、意次と同じく家治が信頼した側近の一人である。どんな人物だったのか。

大型プロジェクトを仕切る辣腕ぶりを見せた

松平武元は上野国館林6万1000石の城主で、8代将軍の徳川吉宗に見込まれて、9代将軍の家重のもとで延享3(1746)年に西丸老中となり、その翌年に本丸老中に就いた。年齢としては意次よりも5歳年長となるが、意次が老中になったときに、武元はすでに20年以上、老中を務めていたことになるから大ベテランだ。その経験が買われて、明和元(1764)年からは老中首座に就いた。

田沼意次に比べると、語られることが少ない武元だが、徳川吉宗、家重、家治と3代の将軍に仕えただけあって、数々の任務を遂行している。

宝暦元(1751)年には、大御所の吉宗の葬儀を取り仕切り、その後に家治の将軍宣下でも実務を担当した。そんな働きが評価されたのだろう。その年に、武元は勝手掛老中に任命されている。

その後も、日光山で行われた徳川家康150回忌の儀礼の奉行を任されたり、日光東照宮修造の指揮を任されたりと、大型プロジェクトには欠かせない人材として、武元は重宝されている。

家重に抜擢されるかたちで意次が頭角を現すと、協力して政務にあたったようだ。将軍と諸大名の間で折衝役を務めた意次を頼り、随所で力を借りている。

宝暦12(1762)年、火事で江戸の上屋敷が焼けるわ、藩主の島津重豪と一橋家の娘・保姫との婚礼も控えているわで、財政的に困難になった薩摩藩が、幕府にお金を借りようとしたときのことである。

当初は、武元に内願書を出したが、その返事は「意次に頼むように」というものだった。意次がうまく取り計らったのだろう。薩摩藩には2万両の拝借金が認められている。

また、同年に秋田藩が、領内の鉱山における産出量が減少したため、幕府に拝借金を願い出たことがあった。このときは1万5000両の拝借金が許されたが、秋田藩の家老がそのお礼にと参上したのは意次のところだった。意次は当時、御用取次だったが、状況によっては、老中をもしのぐ影響力を持っていたということだろう。

その後、明和4(1767)年に側用人となった意次。2年後の明和6(1769)年には老中格に昇進して5000石の加増を受けたことは前述したとおりだが、同じ年に武元は伊豆国に7000石の加増を受けている。武元の仕事ぶりもまた、将軍から高く評価されていたことがわかる。

病気になっても辞めさせてもらえず

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