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日大の「学祖」と吉田松陰の知られざる"奇縁" 西郷から「用兵の天才」と賞賛された維新の志士

東洋経済オンライン / 2025年1月31日 10時0分

日大の学祖に位置付けられる山田顕義(右)(写真:山口トマト/PIXTA)

田中英壽理事長体制での一連の事件を経て、2022年7月、作家・林真理子氏を理事長に迎えた日本大学。改革が進むかにみえた新体制だったが、アメフト部薬物事件、重量挙部・陸上部・スケート部における「被害額約1億1500万円超」もの金銭不祥事などが立て続けに起こっている。日本最大のマンモス私大「日大」は、どのような経緯をたどって現在に至ったのか。

話題の『地面師』著者で大宅賞作家でもある森功氏の新刊『魔窟 知られざる「日大帝国」興亡の歴史』を一部編集し、全4回に分けてお届けする2回目(1回目はこちら)。

「維新の志士」が学祖

学校法人日本大学は1889(明治22)年10月、「日本法律学校」として創立された。いわゆる旧制の専門学校である。ときの司法大臣である山田顕義が大学創立を推し進め、山田は日大の学祖に位置付けられる。

日本大学の「学祖」山田顕義の教育指針

明治時代における日本の私立大学の起こりといえば、誰もが早稲田の大隈重信や慶應義塾の福澤諭吉を思い浮かべるに違いない。

かたや、日大も明治維新後の文部行政によって誕生した私学である。わけても学祖の山田と明治維新の理論的支柱である吉田松陰との奇縁については、あまり知られていないのではなかろうか。

山田顕義は江戸時代の毛利・長州藩士山田七兵衛顕行の長男として、現在の山口県萩市に生まれた。伯父は長沼流兵法学者だった山田亦介だ。亦介は長州藩の軍制改革総責任者として洋式海軍の創設などに尽力した人物として知られる。江戸幕府による第一次長州征伐の際に処刑された長州藩士11人「甲子殉難十一烈士」の一人である。

日大HP(ホームページ)から山田の生い立ちを紐解くと、幕末から明治にかけた長州藩の兵学が山田の考えの根底にあることがうかがえる。長州藩における師弟関係が、山田の人物形成に大きく影響している。

毛利・長州藩の兵学のもとをただせば、天保の藩政改革を断行した家老の村田清風にさかのぼる。杉百合之助の次男として生まれた吉田松陰は村田に師事し、兵学を学んだ。長州藩の山鹿流兵学師範だった吉田大助の養子となってから、吉田姓を名乗るようになる。本人は山鹿流だけで満足できなかったのであろう。やがて山田亦介の長沼流兵学の教えを受けた。亦介は村田の実弟、山田龔之の息子で、村田の甥にあたる。亦介の実弟が山田顕行で、1866(慶応2)年に長州藩の海軍頭取に就任した。顕行は山田顕義の実父だ。

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