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べらぼうで脚光「平賀源内」才能溢れる彼の失敗 今風にいう「フリーランス」としても活躍した

東洋経済オンライン / 2025年2月2日 8時30分

「これまでの御用でなお継続するものがあれば、浪人としてできるだけお役に立ちたい」

「浪人にて」と強調しているところが、ポイントだ。ここからはフリーランスとして仕事を受けますよ、ということである。

もはや包み隠すことはなにもない、とばかりにストレートに辞意を伝えた源内。正式に脱藩することになったが、その後に江戸藩邸で受け取ったものには、辞職理由として、次のように記されている。

「医業の師匠が年老いたため、この際に昼夜と打ち込んで習ってしまわないと医業が成就できない」

わがままを通されて他の者が真似したら困ると、何か理由をひねり出さなければならなくなったのかもしれない。医業の修行ということにしている。

源内からすれば、なんでもよいから辞めさせてくれ、といった心境だろう。退官にあたっては「他藩への仕官は禁止」という厳しい条件がつけられたが、源内の決心は揺るがなかった。

藩に仕官したくてもできない人がいるなか、自由のために安定を捨てた源内。35歳を目前にしてのフリーランス宣言だった。

成功ばかりではなかったフリーランス事業

自由になった源内は宝暦12(1762)年、第5回となる「東都薬品会」を開催。30余国から1300余点におよぶ展示物を集めて、大盛況となった。規模の大きさから、日本初の博覧会ともされている。

そうかと思えば、翌年の宝暦13(1763)年には、女形の荻野八重桐の溺死事件を題材にして、当時の世相を風刺した『根南志具佐(ねなしぐさ)』を発表。

続いて、実在の辻講釈師である深井志道軒をモデルにして架空の諸国漫遊記で世相を風刺した『風流志道軒傳(ふうりゅうしどうけんでん)』を世に送り出す。ともにベストセラーとなり、「江戸戯作の開祖」とも言われた。

さらに源内は明和3(1766)年に鉱山事業へと乗り出すことになる。かつては大規模な採掘が行われていたものの、出水のため廃坑になっていた中津川の金山に着目。幕府に開発許可の申請を出して認められると、水抜きの問題を解決したうえで、採掘をスタートさせている。

ところが、この事業ばかりはうまくいかなかった。多くの資金と人手を投入したわりには、採掘量は乏しく、3年後の明和6(1769)年には休山に追い込まれている。

さすがの源内先生もお手上げか……と思いきや、翌年から2度目の長崎遊学を果たす。鉱山採掘や精錬について学ぶことができたのだろう。安永元(1772)年に遊学から帰るや否や、中津川へ。今度は鉄山の採掘に挑んでいる。ちょうど田沼意次が老中となった頃で、周囲も期待したに違いないが、またもや失敗に終わっている。

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