1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. アジア・韓流

<Wコラム>日本のコリアをゆく~百済寺跡・鬼室神社編2

Wow!Korea / 2016年4月29日 21時20分

ただし、単純な人質ではなかったと思われる。当時の朝廷には高句麗や新羅からも多くの人たちが技術を持ってやってきており、日本でも朝鮮半島の三国による駆け引きがあった。その中で豊璋は日本の国情を探るという目的を持っていたのかもしれない。

豊璋は学問にも優れ、中国の故事にも精通していたので、朝廷でとても重用されていた。その功績を認め、朝廷も豊璋の帰国を許した。

しかも、豊璋は日本の5千人の兵とともに百済に戻ることになった。それほど、当時の朝廷は百済に対して協力を惜しまなかった。

百済に戻った豊璋は、福信が本拠地にしていた場所で、662年5月に即位式を行なった。義慈王の後を継いで百済の暫定的な王に就任したのだ。

福信は、自分の持っていた権力のすべてを豊璋に譲り、自らはその臣下となって新羅・唐の連合軍との戦いに挑んでいった。

形の上では、義慈王の息子が後継者になったことで、百済は再興されたも同然だった。都は相変わらず新羅・唐の連合軍に占領されていたとはいえ、福信の勢力はその他の地域を次々と取り戻し、都の奪還に狙いをしぼった。

そのままいけば、百済が新羅・唐の連合軍を追い払うことも可能だったのだが…。勢いに水を差したのが福信と豊璋の内紛だった。

■悲劇的な内紛

福信は生まれながらの真の武将であり、軍事面でも統率力に長けていた。一方、幼くして日本に渡って30年近くも異国に住んだ豊璋は、頭脳明晰で学問には秀でていたが、軍事のことはわからなかった。

王として君臨し、軍事面は福信に任せておけば特に問題にならなかったのだが、豊璋は自ら軍を掌握しようとした。

しかし、豊璋が福信の意に反して行なった軍事的な作戦は失敗が多く、百済復興軍の勢いをそぐ結果になっていた。

福信と豊璋の対立は決定的となり、いざこざが絶えなくなった。その中で起こったのが、福信が道深法師を殺害するという出来事だった。

道深法師は、福信の協力者であり名参謀であったのだが、その協力者を福信は殺してしまった。

一説によると、道深法師が豊璋にそそのかされて福信に背信的な行為をしようとしたことが原因とも言われている。

いずれにしても、信頼する道深法師まで殺してしまった福信の刃の先は、次に豊璋に向かうのも明らかだった。

そうした危険を察知した豊璋は一体どうしたか。

■歴史書の記述の違い

韓国と日本に残る歴史書から見てみよう。

朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、次のように記されている(なお、「豊璋」のことは「扶余豊」と表記されている)。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください