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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓古代史が面白い」仏教伝来(後編)

Wow!Korea / 2016年6月27日 19時21分

堂々たる善光寺の本堂(写真提供:ロコレ)

物部氏が滅んだ翌年の588年には、飛鳥の真神原(まかみのはら/現在の奈良県明日香村)で飛鳥寺の造営が始まっていた。ここで注目すべきは、その11年前の577年に百済の都だった扶余(プヨ)で王興寺(ワンフンサ)が建てられていることだ。飛鳥寺で使われた瓦と、王興寺から出土した瓦を比べてみると、蓮の花をかたどった形がよく似ている。このことからも、飛鳥寺が王興寺の影響を受けていることは間違いない。

■善光寺の本尊

『元興寺縁起』によると、593年にまだ工事途中だった飛鳥寺で、塔の心礎に仏舎利を納める儀式が行なわれている。

注目すべきはその時の服装と髪形だ。完全に百済式であったという。蘇我氏はそこまで百済に近かったのである。

飛鳥寺の建立には推古天皇や聖徳太子も関わっている。1つの寺ができるということは、そこにあらゆる技術が注ぎこまれるが、蘇我氏は大和政権の中枢と親密な関係を築きながら、自らの勢力を拡大していった。

飛鳥寺に今も残る大仏が日本で最古の仏像とされているが、実はもう1つ、「最古では?」と目される仏像がある。

それが善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」。ただし、絶対秘仏で見ることはできない。

■暗闇のお戒壇めぐり

善光寺を訪ねてみる。

現在の善光寺の本堂は1707年に建てられている。間口24メートル、高さ30メートル、奥行き54メートルという大伽藍は東日本で最大で、国宝に指定されている。

本堂の右側奥には、「お戒壇めぐり」の入口がある。「お戒壇めぐり」は、本堂の奥に安置されている本尊の真下に設置された回廊をめぐるものだ。

その回廊は真っ暗だ。深い闇が回廊をおおっている。回廊の中ほどで壁にかかる錠前をさぐり当てることができる。この錠前がまさに本尊の真下の位置を示すもの。触れれば本尊の御心を感じることができると言われている。

本尊に代わるものが「前立本尊」。舟型の光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩となっている。

「前立本尊」も秘仏扱いで、7年に一度の御開帳で一般公開される。

■善光寺の本尊の渡来秘話

善光寺に伝わる『善光寺縁起』による本尊の由来を見てみよう。

昔、天竺(インド)に評判が悪い金持ちがいた。名を「月蓋長者」という。溺愛していた娘が伝染病にかかり、名医にも見放された。月蓋は日頃から不信心だったのだが、藁(わら)にもすがる思いでお釈迦様に娘の命乞いをした。お釈迦様は阿弥陀如来を信じなさいと勧めた。月蓋がそのとおりにすると、幸いに娘が全快した。それだけではなく、他の病人も治った。感激した月蓋は、阿弥陀三尊像をつくって祈り続けた。阿弥陀三尊像はやがて百済に伝わり、聖明王の時代に人々を救済した。阿弥陀三尊仏はさらに日本へ渡った。仏教を大いに広めるためだった。欽明天皇は崇仏派の蘇我氏に阿弥陀三尊仏を与えた。それにもかかわらず、国中に悪病がはやった。排仏派の物部氏は、「異国の神を祀って日本の神が怒った」と批判。蘇我氏が建立した寺を焼き払い、難波の堀江に阿弥陀三尊仏を投げ捨てた。ある日、信濃の国の本田善光が堀江を通ったとき、水中から急に阿弥陀三尊仏が現れ、「信州に連れて行きなさい」と語った。善光は故郷に草堂を建て、阿弥陀三尊仏を安置した。これが善光寺の始まりだ。

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