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<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列伝(16代王・仁祖編)~最大の屈辱を受けた王・仁祖

Wow!Korea / 2016年7月4日 17時5分

こうして、綾陽君は仁穆王后の許しを受けて16代王・仁祖として即位となった。卓越した戦略性と優れた統率力によって、クーデターを成功させた仁祖の治世に多くの人が期待をもった。しかし、彼の治世は困難の連続だった。

なんと、即位してすぐにクーデターの功臣・李グァルが反乱を起こしたのだ。李グァルの手際も見事で、一時は首都を占領までされた。仁祖はなんとか李グァルの反乱を鎮静することができたが、この動乱の結果、外敵に対する備えがおろそかになってしまった。

1627年、北方の異民族である後金は、仁祖が見せた隙を見逃さず朝鮮王朝に侵攻した。当時の朝鮮王朝は、中国大陸の大国・明を崇める一方で、他の異民族を「辺境の蛮族」と見下していた。これが、後金の怒りを買ってしまい、侵攻は一層激しくなるばかりだった。1636年12月、後金は国名を清に変えて朝鮮半島に大軍で攻めてきた。朝鮮王朝側は、清の圧倒的な軍事力の前に降伏するしかなかった。

降伏を認めた清が仁祖に求めたのは、彼自身が直接、清の皇帝の前で膝を折って謝罪すること。こうして、仁祖は漢江(ハンガン)の川沿いにある三田渡(サンチョンド)で、3回ひざまずいて9回頭を地面にこすりつけるという屈辱的な謝罪をさせられる。

この一件は朝鮮王朝最大の屈辱として、「三田渡の屈辱」と呼ばれた。

さらに、清は仁祖の3人の息子を人質として清に連れ帰ってしまった。息子3人と別れるとき、仁祖は慟哭(どうこく)して涙を流し続けたという……。

外国の文化にかぶれた世子

仁祖の3人の息子は、当時の清の都であった瀋陽(しんよう)で人質生活を始めた。三男は幼すぎるという理由ですぐに帰国することができたが、長男の昭顕(ソヒョン)と二男の鳳林(ポンニム)はなかなか解放してもらえなかった。

ただし、2人が清に抱いた感情は好対照だ。昭顕は、西洋の文物にまで触れることができた瀋陽での生活が興味深くなり、異国の文化を大いに満喫した。一方の鳳林は自分を人質にしている清を憎み、そこでの生活をずっと忌み嫌った。

2人の帰国が許されるのは1645年になってからだった。昭顕はすぐに父のいる王宮に向かった。誰もが父子の感動の対面を予想したが、仁祖の対応は冷めきっていた。

実は、昭顕の清での生活ぶりは詳しく仁祖に伝えられていた。さらに、清が反骨心を見せる仁祖を廃位にして、昭顕を即位させようとしているという噂まであったのだ。

王宮を追われると思った仁祖が、昭顕に冷たくあたるのも理解できる。

しかし、父がそんな気持ちを抱いていることに気が付かない昭顕は、仁祖の前で清の文化のすばらしさを力説。仁祖は激怒すると、手もとにあった硯(すずり)を世子の顔に投げつけた。こうして、父子の不和は決定的なものになった。

この2か月後、昭顕は原因不明の病を患って、苦しみながら世を去った。帰国からたった2か月での死。その死因は仁祖による毒殺だという説が有力だ。

それを決定づけたのが、昭顕の葬儀だ。仁祖は世子である昭顕の葬儀を庶民と同じ扱いでとても簡単に済ましたのだ。さらに、新たな世子選びにも不審な点がある。

本来ならば、昭顕が死ねば彼の息子が世子に指名されるはずなのに、仁祖は二男の鳳林を新たな世子に指名したのだ。

普通なら考えられないことだ。この2つの事例は、仁祖毒殺説を今も根強いものにしている。

文=康大地【コウダイチ】

ロコレ提供

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