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<Wコラム>日本のコリアをゆく(静岡・清見寺編1)

Wow!Korea / 2016年7月11日 17時17分

清見寺の境内

広島の鞆の浦にある福禅寺からの眺めは、朝鮮通信使が「日東第一形勝」と絶賛していた。同じく朝鮮通信使が「東海の名勝」と称賛したのが、清見寺(せいけんじ)から見た駿河湾の景観だった。今はかなり風景が変わってしまったのだが……。

■「東海の名勝」のその後

江戸時代、海の沖合に三保の松原が見える風景はよほどすばらしかったようで、この清見寺に立ち寄ることが朝鮮通信使の楽しみの一つだった。

ただし、福禅寺からの景観は、現在も朝鮮通信使の一行が見たものとほとんど同じだが、「東海の名勝」は明治以降に一変してしまった。

まず、広大な清見寺の境内を東海道本線が横切るようになったし、目の前の海は埋め立てられて工場が立ち並び、三保の松原も見えなくなっている。

日本の大動脈に位置していたがゆえに、開発という名のもとで景観がすっかり変わってしまった。

それでも、清見寺が朝鮮通信使と深い縁を持っていたという事実は変わらない。なにしろ、朝鮮通信使が記した書画が最も数多く残っているのが清見寺であり、国から「朝鮮通信使史跡」に指定されているほどである。

その清見寺は、東海道本線の興津駅の近くにある。

■「東海名區」と書かれた扁額

改札口を出てから国道1号線を西に歩くこと10分、清見寺の山門が見えてきた。その手前には、関所跡がある。

この関所は「清見関(きよみがせき)」と呼ばれ、その関所の鎮護として仏堂が建てられたのが清見寺の始まりと伝えられている。

清見寺の周辺は山が海まで迫っているので自然と要害の地となり、戦乱の際には争奪戦が激しく展開されたという。

その後、寺は江戸時代を通して徳川家に保護され、朝鮮通信使だけでなく、琉球王朝の使節を接待する宿舎としても使われた。

山門の前に立つ。「東海名區」と揮毫された扁額がかかっていたが、それをゆっくり見ていると、列車が轟音を立てて通過して行った。山門の裏手はすぐ東海道本線の線路が走っていて、完全に山門だけが孤立している。

階段を昇って山門をくぐると道が左側に旋回していて、そのまま東海道線をまたぐ陸橋になっている。道なりに進んで、清見寺の正門に至った。

中に入ると、仏殿、方丈、鐘楼が見渡せる。往時の寺の隆盛ぶりを伝えるかのように、重厚な雰囲気が漂う。

大方丈に上がると、壁にかけられた数多くの扁額が目立っている。

扁額のほとんどは、朝鮮通信使が残したものだという。その一つひとつを見ていると、「清見寺が朝鮮通信使にいかに愛されたか」がよくわかった。

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