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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓古代史が面白い」渡来人の足跡(後編)

Wow!Korea / 2016年7月19日 23時59分

聖天院にある高麗王廟(写真提供:ロコレ)

西武池袋線の「高麗」駅から丘陵地帯を40分ほど歩くと、聖天院にたどりつく。

山門をくぐらず、そのまま右に進むと、すぐに「高麗王廟」に出た。社の中に高さ2・3mの石塔がある。これが墓に該当するのだが、祀られているのは誰なのか。

■東国に移る渡来人

石塔に祀られていたのは、本記事の中編で取り上げた若光(じゃくこう)である。8世紀の初めに大磯に定住していたはずの彼の墓が、なぜ埼玉県の聖天院にあるのか。

それを語る前に、7世紀後半に畿内から東国に移る渡来人がいかに多かったかを見てみよう。「日高市史」(埼玉県日高市発行)は次のように記録している。

・684年、朝廷は百済人23人を武蔵に移した。

・687年、高句麗人56人を常陸に、新羅人14人を下野に、新羅人22人を武蔵に移

した。

・689年、下野へ新羅人を移住させた。

・690年、新羅人12人が武蔵に、さらに新羅人の若干が下野に移った。

このように、日本に来ても渡来人は故国ごとに分類されて「百済人」、「高句麗人」、「新羅人」と呼ばれていたが、彼らは次々に武蔵(現在の東京都と埼玉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)に移っていった。朝廷が東国開発を本格化させていた影響を受けたものだ。

■最初の高麗郡長官は?

移住政策の一環として、若光に率いられた高句麗人たちが706年から相模に定住したわけだが、朝廷はさらに大規模な東国開発を計画し、それは716年に実施された。その際、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸、下野に住む高句麗人1799人を武蔵に移して「高麗郡」を新設した。

新たな郡が設置された背景には、東国に分散していた高句麗人たちを同じ場所に集中させることを嘆願する勢力の存在がある。それは、高句麗系の特権階級たちだ。彼らは、百済系や新羅系とは一線を画し、自分たちの勢力を関東で集約させることを願った。それが高麗郡への集中移住に結びついた。

しかし、すでに居住地で生活の基盤を作っている高句麗人も多く、移住には不満も出た。そうした不満を抑える指導者が必要となった。その適任者が、すでに大磯で実績を作っていた若光だったのである。彼は最初の高麗郡長官に任命されて、相模から武蔵に移ってきた。

高句麗が滅亡する2年前の666年に日本に来ているから、716年というと、すでに50年の歳月が流れている。当時としては、どれほどの高齢だったのか。それにもかかわらず、彼はりっぱに職責を果たし、新しい土地で尊敬を集めた。

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