<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓近世史は面白い! 」朝鮮出兵後の国交回復(中編)
Wow!Korea / 2016年7月28日 19時12分
朝鮮王朝は、徳川幕府が望んだ国交回復に対して、「日本側からまず国書を出して使節を招聘すること。さらに、豊臣軍の侵攻時に王家の陵墓を荒らした犯人を差し出すこと」という条件を出した。対馬藩は朝鮮王朝が言うとおりにしたのだが、国書も犯人もニセモノだった。そのことは朝鮮王朝もすぐにわかった。
■朝鮮王朝の要望が通った
ニセモノを寄越した対馬藩。朝鮮王朝が激怒しても当たり前なのに、あえてそうしなかった。
切実だったのは、戦乱の最中に日本に連行された人々(被虜人と言う)を早急に帰国させることだった。
その数は5万人にのぼると推定されていた。被虜人の家族から無数の嘆願書が朝廷に届いていて、それに対応する必要に迫られていた。
そのためには、使節を日本に派遣して徳川幕府と交渉しなければならない。
また、国書と罪人がニセモノであるとしても、あくまでも形の上では朝鮮王朝側の要望通りになっていた。
つまり、日本側を代表している対馬藩が国書を先に持参してきたことは、それを受ける形の朝鮮王朝がずっと有利な立場になったことを意味していた。
一応の形が整っていることを理由にして、朝鮮王朝は使節の派遣を決めた。使節の名称は、従来であれば「通信使」とするのが慣例だが、今回は家康の国書に対して回答するという名目を前面に出して、「回答使」にした。
■江戸での国書交換を望んだ幕府
1607年1月、呂祐吉(ヨ・ウギル)を正使とする朝鮮王朝の使節団460人余が釜山(プサン)を出発した。
一行は対馬に立ち寄ったあと、瀬戸内海を通って大坂に上陸。このときに使節一行は、不倶戴天の敵が築いた巨大な城を見て、その規模の大きさに圧倒された。しかも、秀吉の遺児である秀頼が大坂城にいたのである。戦乱から9年。壮絶な戦いの記憶はまだ生々しかった。
使節一行は京都を経て浜松に至った。
家康の側近が駆けつけてきて言った。
「大御所はすでに将軍職を秀忠様にお譲りになっておられます。皆様は江戸に行かれて、秀忠様に国書をお渡しくださいませ」
呂祐吉が反論した。
「国書は家康殿に宛てたものである。なんとしても直接渡したい」
呂祐吉はそう訴えたが、家康の側近は、
「大御所はお会いできません。ぜひ江戸へ」
と強く拒んだ。
「ならば、挨拶だけでも……」
呂祐吉は、家康との面会だけは実現したいと迫ったが、それも許されなかった。家康の側近は「とにかく江戸へ」の一点張りであった。
■朝鮮王朝の返書も偽造された
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