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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人1」~浅川伯教・巧(前編)

Wow!Korea / 2016年8月3日 20時17分

「朝鮮の地に行けば、きっとすばらしい陶磁器を探せるだろう」

そんな思いが募り、ついに伯教は1913年に日本の植民地だった朝鮮半島へ渡った。幸いに、京城(現在のソウル)で尋常小学校の教師の職を得た。

念願だった朝鮮陶磁器の研究にも拍車がかかる。その中で、彼が最も愛したのは白磁だった。

もともと、伯教は高麗青磁に魅了されていた。しかし、高麗青磁はあまりに高価で、簡単に手に入れることができなかった。

気持ちがふさいでいるとき、たまたま道具屋の前を通り、雑然と置かれた品々の中に、電灯を浴びて白く輝く壺を見つけた。

……その美しさを何に例えたらいいのか。

伯教がその壺を買ったとき、彼の運命も決まった。

その当時、白磁は高麗青磁に比べると評価が低く、手頃な価格で買い求めることができた。

以後、伯教は白磁の蒐集家となり、その研究家として生涯を送ることになった。

■職を辞して研究に没頭

浅川伯教の研究は徹底していて、古い陶磁器を調べるために朝鮮の各地を訪ね歩いた。そうした調査の中で、朝鮮に残る陶磁器の時代的変遷が明らかになっていった。

伯教はさらに研究に打ち込むために、1919年に教職も辞し、ほとんど無報酬の状態になった。

すでに結婚をして一家の主となっていた伯教。家父長として心もとないが、そんな一家を経済的に支えたのが妻のたかよだった。彼女は日本語教師や英語教師をしながら夫を支え、家族の生活を守った。

そんな中で、伯教の研究も核心を突いていく。彼は日本に残る貴重な陶磁器が実は朝鮮伝来のものが多いことを知り、その詳細を明らかにするために日本各地も訪ねた。

結局、伯教が調べた窯跡の数は700を越えた。まだ交通機関が発達していない時代に、地方を巡回する生活がどれほど大変だったか。それを思うと、強い意思を持って朝鮮と日本の各地を回った伯教の熱意に頭が下がる。

伯教は朝鮮半島が日本の植民地支配から解放されたあと、1946年に日本に戻ったが、以後も研究を続け、1964年に80歳で亡くなった。

文=康熙奉(カンヒボン)

(ロコレ提供)

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