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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~加藤清正(前編)

Wow!Korea / 2016年8月10日 20時29分

当時、儒教社会だった朝鮮半島では漢籍の素養が重んじられていた。そこで、四書五経を習得した少年たちを日本に連れ帰って将来儒者や僧侶にして藩内の文化を発展させよう、という意図を持った武将も少なからずいた。その代表格が清正である。そして、彼が慶尚道(キョンサンド/朝鮮半島南東部の地域)で見つけた利発な少年が、13歳の余大男(ヨ・デナム)だった。

戦乱の中で寺に避難していたこの少年は、清正の配下の者につかまり、大将の前に引っ張りだされた。

そのとき、少年はスラスラと漢詩の一節をすばらしい書に仕上げた。その達筆ぶりに清正は心から驚いた。

■まさかの手紙

当時の日本は、戦国の世が終わったばかりだった。長く続いた戦争によって民心は荒れ、庶民は学問をする余裕すらなかった。それだけに、読み書きができない子供が多かったのもやむをえなかった。

そんな現状を知る清正にとって、余大男は天才にも思えたことだろう。感激した清正はこの少年を連れ帰り、師とも仰ぐ僧侶の日真上人に託した。こうして、13歳の余大男は慣れない異国で新しい人生を始めなければならなくなった。

清正は日蓮宗の熱心な信者であった。

彼は聡明な余大男を日蓮宗のりっぱな僧侶にしたいと考えた。その指示に従って、余大男は剃髪をして僧の見習いとなった。

彼は、その時点で両親は亡くなっていると思っていた。豊臣軍の出兵によって故郷は激しい戦乱に巻き込まれたので、両親が生きているとは到底考えられなかったのである。

「僧侶として父母を一生弔っていこう」

余大男はそう決意して、仏の道に入った。

清正の信頼が厚い日真上人に支えられ、余大男は京都でも修行を積んだ。僧侶として大成した彼は、1609年に29歳の若さで本妙寺の住職となり、日遙上人と呼ばれるようになった。

この時点で本妙寺はまだ熊本の城内にあったが、清正の死後はその廟所に本妙寺を移築することになった。この点でも余大男は大いに尽力し、その名声は領内に轟いた。

そんな彼は1620年、40歳のときに驚愕すべき手紙を受け取った。その差出人は、亡くなったと思っていた父の余天甲(ヨ・チョンガプ)だった。

(次回に続く)

文=康熙奉(カンヒボン)

(ロコレ提供)

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