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黄金と詫び…茶室が物語る秀吉の心 佐賀県・肥前名護屋城/ 千田嘉博のお城探偵

産経ニュース / 2024年5月8日 6時0分

豊臣秀吉は1591(天正19)年に天下統一を成し遂げた。もし秀吉が、内政の充実に専心して、平和で豊かな国づくりを進めたら、豊臣政権の行く末も、違っただろう。しかし秀吉は天下を統一するやいなや、対外侵略戦争である文禄・慶長の役へと突き進んだ。1591年に「唐入り」を決断し、現在の佐賀県唐津市に肥前名護屋城の築城をはじめた。1592(天正20)年3月に秀吉は肥前名護屋城へ動座し、翌4月に豊臣軍は朝鮮国への侵攻を開始した。

秀吉は1592年から93年8月までの間の、およそ12カ月半の期間、名護屋城にいた。このとき秀吉が注力したことのひとつが茶の湯だった。茶室であれば、大名一人ひとりに近接して座し、ともに茶を楽しんで、身分の違いを越えて心を結べる。だから秀吉の茶道は芸術の探求だけでなく、政権運営の技術でもあった。

秀吉は1585(天正13)年に大坂城ではじめて用い、天皇の御所でも披露した三畳の黄金の茶室(「金ノ御座敷」)を、1592年5月に名護屋城の御殿内に組み立てて、諸大名を招いた。佐賀県立名護屋城博物館は2022(令和4)年に、この黄金の茶室を復元して、博物館内で茶室の体験プログラムを行っている。

復元した黄金の茶室に入ると、これまで体験したことがない黄金の世界につつまれる。柱や壁、天井、床に至るまで金で覆い尽くし、茶道具の多くも金。畳と障子は金に映える深紅。空間は反射し合って三畳の小ささを感じない。この茶室は天下人秀吉の力を示して、豪華絢爛(けんらん)さを極めた。

そして2024年3月に佐賀県立名護屋城博物館は、秀吉が名護屋城の山里丸に建てた草庵の茶室を復元・公開した。草庵の茶室は四畳半で、1592年11月に秀吉の茶会で最初に用いた。柱も壁もすべて青竹で、屋根は草葺き。復元にあたっては青竹の色が持続するよう工夫したので、この茶室の雰囲気を私たちは長く実感できる。

草庵の茶室は、細縁を正面に備え、内外面は青竹。現在は活用のために床に畳を敷くが、本来は青竹の床で、亭主と客は円座を用いた。復元した茶室に入ると、青竹の鮮やかさが際立つ。切り立ての竹のつかの間の美しさと、竹を構造材にした軽やかさにつつまれる。この茶室は自然の景観を再現した城内の山里丸にあって、城中山居の佗茶(わびちゃ)世界を極めた。

黄金と侘(わ)びという対極の茶室が、ともに秀吉の城に併存したのは興味深い。秀吉の心中には、強烈な自己顕示欲と隠者的意識の両方があって、激しくせめぎ合っていたように思う。そして、そのどちらも秀吉だった。みなさんも秀吉のふたつの茶室を訪ねて、天下人の心中を体感してみてほしい。(城郭考古学者)

名護屋城(肥前名護屋城)

豊臣秀吉の大陸制覇の野望をかけた前線基地として、玄界灘を望む場所に築造された。当時、周囲には徳川家康や前田利家ら諸大名の陣屋が置かれ、全国から多くの人々が結集した。国の特別史跡であり、日本100名城にも選ばれている。

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