【追悼】「ウルトラマン80」主題歌の故・木村昇さん 生前に語った素顔と秘話「QUEENの歌い方をヒントに」
よろず~ニュース / 2024年12月31日 11時26分
木村昇さんのX(@exTALIZMAN)プロフィール画像
今年も時代を彩った多くの人気者が世を去りました。サブカル界でも声優、漫画家、歌手たちの訃報が伝えられる度、驚きと悲しみ、そしてその功績がたたえられました。今年10月に72歳で死去した木村昇さんもその一人だと考えます。
木村さんはロックバンド「TALIZMAN」のボーカルとして、人気特撮シリーズ「ウルトラマン80」の主題歌「ウルトラマン80」を歌唱。HARRYの名義でアニソン屈指の名曲と名高い「未来警察ウラシマン」主題歌「MIDNIGHT SUBMARINE」を、ハーリー木村としては特撮「宇宙刑事ギャバン」の挿入歌「青い地球は母の星」を、本名でもアニメ「ルパン三世」(テレビ第2シリーズ)のエンディング曲「LOVE IS EVERYTHING」で大人の色香を漂わせ、伸びやかな歌声を響かせました。
木村さんのX(旧ツイッター)を通して、関係者から訃報が伝えられたのですが、その実像はそれほど語られていないように感じます。木村さんは多くの楽曲に携わる一方、1983年で芸能活動を休止。2016年に30年以上の沈黙を破り音楽活動を再開しました。
このほど、2018年に木村さんを取材したものの、出版側の都合でお蔵入りとなった記事が寄稿されました。昭和をモチーフとしたイベント、アニソンライブを手がけ、伝説のアニメソングシンガー、ヒデ夕樹(ひで・ゆうき、1940-1998年)の生涯に迫った著書「ヒデ夕樹とテレビまんが主題歌の黄金期」を持つ剣持光さんによる記事です。
しかし、当サイトが改めて関係者に取材したところ、事実確認が難しい箇所があり、そのままの掲載は難しい状況でした。剣持さんの了承を得た上で、当サイトで再編集を行いました。木村さんの足跡、言葉を伝えたい思いを、ご理解いただければ幸いです。
◆ ◆ ◆
木村昇(きむら・のぼる)は1952年5月14日、兵庫県姫路市生まれ。27歳でロックバンドTALIZMAN(タリスマン)を結成し、ボーカルとしてテレビCM、アニメなどのタイアップソングを主に歌った。脱退後はハーリー木村、HARRYという芸名でも活躍したが、31歳で芸能界を引退。16年から宮城県仙台市を拠点に歌手活動を再開させた。
代表曲に「ウルトラマン80」(1980年、同名テレビ映画主題歌)、「LOVE IS EVERYTHING」(1980年、テレビアニメ『ルパン三世(第2シリーズ)』エンディング主題歌)、「テクノボイジャー」(1982年、テレビアニメ『科学救助隊テクノボイジャー』主題歌)、「ミッドナイト・サブマリン」(1983年、テレビアニメ『未来警察ウラシマン』主題歌)がある。
◆はじまり
幼少の頃を回顧して、木村昇はこう語った。
「叔父がジャズのギタリストだったんですが、その叔父に可愛がられましてね。小学校に上がる前から、どこに行くのも一緒でした。その頃からジャズクラブにも出入りしていたんです。そんなある日、店の隅っこにパーカッションが置いてあるのを見かけた。それで、叔父にお前も叩いてみろといわれて、見よう見まねで叩くようになって……。それが楽器に興味を持つようになったきっかけです」
中学校に進学しブラスバンド部に入部すると、音楽熱に拍車がかかった。木村はサックスを得意としたが、ほかにもクラリネット、トランペット、ティンパニー、ドラムなどあらゆる楽器をこなすようになっていった。
何かと頼りにされるようになると、ますますおもしろくて仕方がない。木村は顧問の教師にも信頼され、演奏会の選曲も任されるようになる。
「学校で与えられる譜面はどれもありきたりのものばかりなんです。そこで、ぼくが自分のセンスで恰好いいと思う曲の楽譜を買ってきて、楽譜を各楽器のパート用に書き起こしてそれを部員に配ったんです。その甲斐あってブラスバンド部は、姫路市の中学校の演奏会で金賞をもらったことがありました」
予算も一気にアップし、翌年にはブラスバンド部の楽器が総取っ換えになった。功績を認められ、木村は二年生に進級すると、三年生を差しおいて部長に任命された。
【次ページ】プロのミュージシャンへ
中学を卒業する頃には、部活だけでは飽き足らず、姫路のジャズ喫茶で大人と互角にサックスでセッションをやるようになった。
その頃のその界隈の音楽レベルがいかに高かったのかを裏づけるエピソードとして、木村の口からこんなことが語られた。
「その頃、ぼくの三つ年上でハスキーな声でR&Bを歌っていたのが〝キー坊〟でした。あの当時、GSブームだったのに、キー坊はドック・オブ・ベイのようなR&Bばかり歌っていた。けれども、すごいパワーで歌うから、関西ではすぐに知られる存在になりましてね。街を歩いていたら、キー坊のあとにゾロゾロと女の子がついて行くという、それぐらいの人気者でしたよ」
それが、のちに「悲しい色やね」でブレイクする上田正樹であった。
上田以外にもその頃の姫路界隈のジャズ喫茶には、レベルの高い歌手や演奏家が大勢いたという。そうしたアーティストと互角に渡り合っていた。
東京で勝負しようという気持ちが日に日に高まった。そこで、木村は高校を中退し、知人のつてを頼って上京することにした。
上京してからすぐに演奏スキルが認められ、木村は16人編成のバンド「上野信一と東京ラティーノス」のサックス担当として迎え入れられることになった。
「18歳の時からピーターのバックバンドをやり出しました」
池畑慎之介は、上方舞吉村流の家元、吉村雄輝の長男として生まれたが、因習を嫌って17歳で家出した。その後、六本木のゴーゴークラブに入り浸って踊り明かす日々を送るようになったが、そのピーター・パンのような美貌にちなみ、池畑は夜の街で〝ピーター〟という通称で知られるようになった。映画「薔薇の葬列」(1969年公開/ATG)で主演デビューを果たすと、続けざまにピーターは「夜と朝のあいだに」を歌う。この一曲で彼の名前は一気にお茶の間にも知れ渡るようになった。
木村がピーターのバックバンドに参加したのは、まさにピーターがブレイクした直後の大阪万博開催の年だという。しかし、加入から1年たった頃、木村は〝クビ〟を通告されてしまった。
「営業回りでは、ぼくがサックスを吹いていると、その最中にピーターがぼくにむかってウインクしたり投げキスしたりするんです。もちろん本人は冗談のつもりですよ」
これが関係者の不興を買ったためだという。
◆音楽業界の十字軍
その後、木村は自身の率いる〝NOBORUバンド〟でボーカルを担当し、海援隊の「JODAN JODAN」の作曲・アレンジなどをしていたが、1979年、ロックバンド「TARIZMAN」のリーダー兼ボーカルとなり、翌年にはレコードデビューを果たす。TALIZMANとは、ドイツ・スイス語で〝十字軍〟という意味だ。音楽業界の十字軍たる存在になろうという思いをこめて、名づけられたバンド名だった。
TALIZMANのデビュー曲「Aquarius」は、ミュージカル劇「ヘアー」(1980年4月4日~29日/パルコ劇場)の主題歌である。以降、彼らは一貫してテレビCM、アニメ、映画のタイアップソングを歌っていくことになる。これは、彼らの所属した音楽事務所の方針だったという。
では、事務所はTALIAMANに何を期待していたか。それを語るにはまず当時のタイアップソング事情に目を向ける必要がある。
アーティストの楽曲が〝タイアップ〟として売り出されるようになったきっかけは、1976年の資生堂のCMからである。従来のCMソングは商品名を連呼するものばかりであったが、70年代半ばに資生堂が打ち出した〝イメージソング戦略〟によって大きく風向きが変わり始める。
その戦略とは、テレビCMで流れた音楽がレコード会社から発売され、曲がヒットすることによって、さらなる宣伝効果を見込めるというものだった。そのためには商品名を連呼する曲ではなく、オリジナルの新曲として人の耳に馴染むことが必要と考えられた。
その第1弾として制作されたCMが、「ゆれる、まなざし」だった。このCMは、シックな衣装に身を包んだ女優の真行寺君枝がマッチの先に火をともし、火が消えると、カメラ目線で視聴者を見つめるだけの映像である。それが1分間も続く。商品の説明は映像が終わる直前に5秒程度挿入されるだけで、終わるまで化粧品のCMとは気づかせないような工夫がされていた。視聴者には女優の美しさ、そのバックに流れる歌の素晴らしさをじっくりと堪能してもらうというのが、CMの趣旨であった。CMで使われた小椋佳の「揺れるまなざし」はヒット曲となる。
その後も、矢沢永吉「時間よ止まれ」(1978年)、堀内孝雄「君のひとみは10000ボルト」(1978年)、ツイスト「燃えろいい女」(1978年)といった資生堂のCMで使われた曲は続々とヒットを飛ばし、その相乗効果で化粧品の売上も伸びていった。資生堂の戦略どおりの効果であった。
カネボウ(現・カネボウ化粧品)はやや遅れを取ったものの、夏目雅子が小麦色の健康的な肌を見せる映像にティナ・チャールズの「Oh!クッキーフェイス」(1977年)を流すというCMでもって資生堂に対抗した。それ以降のカネボウのCMで流れたサーカス「Mr.サマータイム」(1978年)、布施明「君は薔薇より美しい」(1979年)、渡辺真知子「唇よ、熱く君を語れ」(1979年)等、イメージソングも続々とヒットを飛ばしていく。
そして、この時代からCMで使われた曲は、商品名を連呼するコマーシャルソングとの差別化を計るため、いつしか〝イメージソング〟と呼ばれるようになるのである。
こうして資生堂対カネボウに端を発したイメージソング合戦は、国鉄、カメラメーカー、製菓会社など他業種のCMにも飛び火して1980年代のテレビはタイアップソングだらけになるという現象が起こったのである。
【次ページ】タイアップソングと木村昇、そして「ウルトラマン80」
そうしたタイアップソング戦国時代が幕を開ける前夜、ジェニカ・ミュージック音楽出版の社長兼プロデューサーであるジョニー野村は、1976年の段階でタイアップの重要性に着目していた。これからの時代、映像メディアとの相乗効果で曲の売れ行きが決まると見ていた野村は、自社がマネジメントするロックバンド、ゴダイゴの楽曲をいちはやく映像業界へ売り込むことに奔走した。
そして、彼らが歌ったテレビドラマ「西遊記」(1978~79年/日本テレビ系列)の主題歌「モンキー・マジック」とエンディング主題歌「ガンダーラ」が爆発的な売れ行きを記録すると、野村はタイアップの重要性をさらに確信するようになる。
そうなると、次に野村の頭にひらめいたのは、「タイアップ路線の拡張」であった。
そんななかでジェニカ・ミュージックから売り出されたのが、TALIZMANだった。TALIZMANはタイアップソングに特化したバンドとして、売り出される。
アニメ映画「超人ロック」やハリウッド大作「ブラックホール」のイメージソング、トヨタカローラのCM等々、彼らはメディアのタイアップソングを歌っていく。
◆新サウンドを意識した「ウルトラマン80」
そして、1980年、後にTALIZMANの代表曲ともいうべきタイアップソングに出会うことになる。それが、「ウルトラマン80」であった。
「ウルトラマン80」の企画を起ち上げた当初、制作スタッフは「新しいウルトラマン像とは何か?」という課題に取り組み、連日連夜ブレーンストーミングをくり返した。その結果たどりついた企画書には、未成年者による殺人、自殺など暗い世相を取り上げ、そういう時代ゆえに「〝生命の尊さ〟〝愛の美しさ〟〝勇気の誇らしさ〟を啓蒙し、〝ウルトラ文化〟と呼ばれる子供文化を作り上げていきたい」というスローガンが掲げられている。
そうなると、「行け」「戦え」というような戦意を高揚するような歌詞の主題歌は、新しいウルトラマンにはふさわしくない。
「ウルトラマン80」の主題歌のオファーが来た時のことを木村は次のように語った。
「日本コロムビア本社に行って、(名前は忘れてしまったが)円谷プロの担当者とお会いしました。それで、注文されたのが〝これまでのウルトラマンの歌はマーチみたいなものばかりだったから、新作の『ウルトラマン80』ではロックっぽい感じでお願いします〟ってことでした。山上(路夫)さんの詞には、英語の歌詞も最初から盛り込まれていました。詞を見た当初〝この歌詞にロックかよ〟とも思ったんですが、いざ取りかかってみると、曲は比較的作りやすかったです」
アレンジは、木村自らが行なった。
「分数コードの使い方なんかは、ミッキー吉野やタケカワユキヒデのやり方を参考にさせてもらいました」
分数コードは70年代後半の〝ニューミュージック〟と呼ばれるポップスに使われたベースコードで、その旗手である松任谷由実がこれを頻繁に用いて曲をスタイリッシュに仕上げたことはよく知られている。分数コードはスタイリッシュさを出すにはうってつけの演奏方法であり、当時の新しもの好きのアーティストがこぞって分数コードを演奏に取り入れていくようになる。
そうしたなか、木村は特撮主題歌のアレンジでは異例の分数コードを取り入れた。ヒーローソングでは、非常に珍しいものであった。
また、この制作過程においては、ジョニー野村のアドバイスが反映されているという。
「歌の要所要所に〝アー〟というコーラスが入りますよね。あれはジョニーさんの提案なんです。QUEENの歌い方をヒントにしろといわれました」
こうして流行の最先端の音楽テクニックを結集して作られた「ウルトラマン80」は、まさしく新時代のウルトラマンにふさわしいテーマソングとなった。
「80」最大の功績は、ヒーローソングの新たな可能性を打ち出したことだ。ヒーローソングとポップスとの垣根を取り払うきっかけとして、さらにアニメソングがイメージソングになっていくきっかけとして、この番組はアニメソングの歴史においては燦然と光を放っている。
◆やってられねぇや!
1981年の秋、木村はTALIZMANを脱退すると同時に、事務所を移籍する。ハーリー木村の名義で「宇宙刑事ギャバン」(1982年~83年/テレビ朝日系列)の挿入歌を作曲し、自ら歌った。さらに芸名をHARRYに変え、「未来警察ウラシマン」(1983年/フジテレビ系列)等のアニメソングを歌い、本名の木村昇名義で金沢明子、秋野暢子らの楽曲を手がけるなどして、歌と作曲両面で順調にキャリアを積み上げていった。
ところが、自身の中で不満だったのが、テクノポップユニット「JAN KEN POW(ジャンケンポー)」への参加だった。31歳でのアイドル的な活動に疑問を抱えていた。そんなある時、マネージャーが「今度はこれを着て歌ってください」といって持ってきた衣装を見て、木村は驚いた。まるでミニーマウスが身につけるようなフリフリのついた、ド派手な衣装だった。木村の鬱憤が、ついにここで爆発した。
「やってられるかよ、バカ野郎」
こうして木村は表舞台からこつ然と姿を消したのであった。
あれから30数年の歳月が流れた。
木村は2018年現在、宮城県仙台市に在住し、自分のペースで音楽活動を再開させている。TALIZMANとしては一度もステージ上で歌うことのなかった「ウルトラマン80」の主題歌も、近年はステージで披露することにしている。
年齢は60代後半に突入した木村ではあるが、まだまだやりたいことがあるという。
「夢は、保育園を作ることです。3歳からばっちり音楽の英才教育を施す保育園。しかも、洋楽しか聴かせない。そうやっていい音楽だけを聴いて育った子供が、世界に羽ばたくミュージシャンになっていくと思うんですよ」
木村が近い将来、音楽業界の「ウルトラマン先生」と呼ばれる日が来ることを祈って、私は木村とかたい握手を交わしたのであった。
◆ ◆ ◆
この度、当サイトが改めて当時の関係者に取材すると「明らかに事実と異なる」と具体的な指摘があり、削除した箇所がありました。芸能活動の休止に関するエピソードでは、当時の関係者が「衣装で…。聞いたことがありません」と驚いていました。どうやら、衣装以外にもさまざまな葛藤を抱えていたようですが、詳細は控えます。池畑慎之介さんとのエピソードは、事実確認は難しいのですが、遠い過去の思い出話の範ちゅうに収めていただきたく思います。
筆者の剣持さんは「木村さんとお会いしたのは、仙台で行なった取材の際、一度限りでした。後に木村さんがやんちゃな性格だと知ったのですが、私に対しては親切このうえなく、繊細ささえも感じられる人柄でした。出版社の事情により、アニソンシンガーの列伝形式の書籍はお蔵入りとなってしまったので、木村さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、木村さんの霊にほんのわずかながらも花を手向けることができたのではないかと思います。木村さんのご冥福をお祈りします」と、コメントを寄せました。木村さんの実像の一端が少しでも世に伝わり、その楽曲が歌い継がれていくことを願っています。
(よろず~ニュース編集部)
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