「源義経=イケメンで戦上手」は“人違い”だった!?…教科書には載らない「源平時代」の裏知識【日本史】
THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年2月7日 12時0分
(※写真はイメージです/PIXTA)
学生時代に習った日本史というと、「暗記ばかりであまり楽しくなかった」という人も多いでしょう。しかし、授業で習った偉人たちに、いまの時代であれば“大炎上もの”の壮絶な裏話やスキャンダルがあったと知ったら、よこしまな好奇心から興味が湧く人もいるのではないでしょうか。『「日本史」の最新裏常識 目からウロコの100』(宝島社)より、教科書に載らない「源平時代」の裏話をみていきます。
源義経は「2人」いた!?
源義経は謎の多い人物である。義経についての記述は諸書にあるが、その容貌については、美しいというものと醜いというものと、評価がはっきり二分されている。
『源平盛衰記』では、「色白で容貌優美、動作優雅」と大絶賛。『義経記』でも、「眉目秀麗にして世に類いなし」と記されている。さらには、義経を襲った盗賊たちが「義経を楊貴妃かと思った」とすら書かれ、義経は多くの女性に好意を寄せられ、誰もが彼に恋焦がれると褒めまくりである。
一方、『平家物語』では「平家の公達と比べれば、その一番の屑より劣る」とされ、チビで出っ歯と、今の時代であれば訴訟レベルである。『幸若舞曲』においても、「猿の眼で反っ歯に赤ひげ」とこき下ろされ、容赦がない。
元・山本義経と源義経が混同しているという“奇説”
この、美男子と醜い義経という相反する2つの義経像について、1つの仮説が存在する。それは、同名の山本義経との混同があるのではないかというものだ。
山本義経は近江長浜にある山本山城の城主で、戦上手としてかなり知られた存在であった。源氏であるので、当然姓名は源義経となる。
山本義経は、平家追討を命ずる令旨に応じて挙兵し、木曽義仲の軍勢に加わり、宇治川の戦いでは源義経らと干戈を交えている。そして不思議なことに、この戦い以降、記録から彼の姿はピタリと消えてしまうのである。もちろん、彼ほどの人物がこの戦いで討ち死にしていれば、記録に残るはずであるが、彼が討ち取られたという記録はどこにもない。
源義経の活躍はご存じの通りであるが、合戦経験のない義経が、どうしてあれだけの活躍ができたかは今も謎のままである。なお、宇治川の戦いは兵数に大差があるため戦下手であっても勝利することができた楽勝の合戦であった。
ここで1つの仮説が成り立つことになる。山本が源義経の軍勢に加わり、軍師のような存在になったとすれば、屋島や壇ノ浦での義経の見事な指揮ぶりも理解できるものとなる。
琵琶湖での水上戦の経験を豊富に持つ山本の力があったからこそ、壇ノ浦での水軍を指揮しての勝利もあったとすれば納得できる話である。
鎌倉が恐れ、欲した奥州の黄金
一説に、中世イタリアのマルコ・ポーロが『東方見聞録』で日本について「黄金の国ジパング(Cipangu)では莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている」と書いたのは、奥州藤原氏が建立した毛越寺や中尊寺の、黄金で彩られた無数の堂宇を表現したものだという説があるが、それほどに、藤原氏の財力は絶大であった。
無限とも思える藤原氏の財力
平泉の寺院について『吾妻鏡』では、その数と豪華さについて、驚きをもって記している。毛越寺は堂塔40余宇、禅坊500余宇。金堂は金銀でちりばめられ、高価な名木がふんだんに使われ、万宝を尽くして荘厳に輝いていた。
無論、金堂以外の建物も、贅を尽くした善美なものであった。さらに、恐るべき数の仏像、経典がそれらに安置され、そのどれもが都の最上の仏師が造立したものか、中国から黄金で購入した一級品であった。
これは一例であるが、藤原清衡が中国から購入した一切経5千数百巻のために支払った黄金は、10万5千両であったという。1両37.3gで計算すると4トンである。中世東北では、金1両の重さを20gほどとしたという資料もあるが、それでも2トンの金である。
中世の東北は、「みちのく山に黄金花咲く」と謳われていたが、渓流で採れる砂金や鉱山で、大量の金が産出していた。
また、奥州の日本海側には、青森の十三湖に代表される貿易港が多数あり、大陸との交易で栄えていたが、大陸や北方との交易で得た鷲羽、アザラシの毛皮、絹織物などは、武士たちに高く売れていたという。さらに奥州では鉄の生産、馬の生産も盛んであった。
武士は矢羽に鷲羽を使い、甲冑では毛皮を使い、武器に鉄を使い、馬に大金を支払う。鎌倉を支えた武士たちが、実はこぞって奥州藤原氏の富を増やしていたのである。
平家を打ち倒した源頼朝にとって、この奥州の富は、脅威ではなく次の獲物でしかなかった。源義経が奥州に逃げたのは頼朝にとってはむしろ好都合、願ってもない展開であったのではないだろうか。
義経を見捨て、弟たちを殺した藤原泰衡
源頼朝と対立した源義経は、奥州の藤原秀衡を頼り、平泉へと赴いた。これまで秀衡は平家にも源氏にも朝廷にも味方せず、あくまでも中立を貫き、奥州17万騎と呼ばれる兵力と、莫大な財を温存していた。
あくまでも義経を匿う態度でいた秀衡であったが、病に伏せ、ついには死を覚悟するまでに病状は悪化した。死を前にした秀衡は病床に息子の国衡と泰衡を呼び、「義経を主君として従い、兄弟争わないこと」と遺言し、国衡・泰衡・義経の3人に起請文を書かせている。
義経が平泉入りした9か月後、秀衡は66歳でその生涯を閉じてしまう。あまりにも惜しい奥州の巨魁の死である。
家督を継いだ泰衡は遺言に従い義経を匿ったが、義経を差し出せとの鎌倉からの圧力が日増しに強まり、さらに頼朝は朝廷に義経討伐の宣旨を発給させ、泰衡を追い込んだ。
1188年、泰衡は祖母を殺し、翌年にはさらに末弟の頼衡を殺害したと『尊卑分脈』には記されている。おそらくは義経の扱いと鎌倉への対応をめぐっての意見対立が原因であろう。
自分を守るためだけの藤原泰衡の決断
1189年閏4月30日、義経主従のいる衣川館を500騎の兵が襲い、義経は紅蓮の炎の中で自害して果てたという。さらに泰衡は、義経と親しくしていた弟の忠衡と通衡も殺して義経派を一掃し、義経の首を鎌倉に送り、頼朝に対して恭順の意を示している。しかし頼朝は「家人の義経を許可なく討伐した」ことを理由に藤原氏を攻めた。
平泉軍は、関東からの進撃ルートに長大な防衛線を築いて待ち構えたが、防衛線を迂回して背後を攻撃するという単純な策で頼朝軍が圧勝する。
泰衡は助命嘆願の書状を頼朝に送るも無視され、逃亡中に家人に殺されてその首は頼朝のもとに送られた。頼朝は届いた泰衡の首の眉間に八寸の釘を打たせ、柱にかけてさらしている。主君と思えと父に言われた義経を裏切り、祖母と弟たちを殺してまで保身を考えた男の、無残な最期であった。
日本史研究会
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