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働いていた時の感覚が抜けず「何もしない」老後に焦り…定年後の生活を豊かにする〈無駄を楽しむ心〉の育て方【心理学博士の助言】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年4月27日 9時15分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

仕事に追われる日々を送り続けていため、定年退職後の「時間の多さ」に不安を感じてしまう人は少なくないでしょう。そこで本稿では、MP人間科学研究所で代表を務める心理学博士の榎本博明氏による著書『60歳からめきめき元気になる人「退職不安」を吹き飛ばす秘訣』(朝日新聞出版)から一部抜粋して、老後の生活を豊かにする方法について解説します。

勤勉に動かなくてもよいと気楽に構え、自己を解き放つ

朝起きて、朝食を済ませると、かつての出勤時間。どこかに出かけるか、すぐに何かに取り掛からないと、ダラダラしているようで自己嫌悪に苛まれる。勤勉に働いてきた人には、そんな感覚に陥る人も少なくない。

とくに早起きする必要もないのに、長年の習慣で6時には目が覚めてしまう。でも、どこも行くところがなく、することもないので、一日があまりに長く感じられ、苦痛でしようがないという人もいる。毎日の予定が埋まらないと落ち着かないという人もいる。

40年も働いていると勤勉さが抜けないのだ。自由気ままな暮らし方に慣れていないまじめ人間ほど、自由な状況に置かれると身動きが取れなくなってしまう。

自発性のある人は、現役時代のようなストレスがなくなり、自由気ままな生活を思う存分楽しむことでイキイキしている。一方で、現役生活の中で自発性が枯渇してしまった人は、与えられた役割がないと動くことができず、自由な状況がかえってストレスになり、イキイキ働いていた頃を懐かしんだりする。

そのような人は、もうひたすら予定に追われるような生活をしなくてもよいのだから、自分を時間割の枠にはめ込もうとする発想を捨てるべきだろう。

自分を自由な状況に慣らすことも必要だ。たとえば、あえて何もしない時間をもつようにする。そうすると、自分の内側から動きが生じてくる。気になることが出てきたり、やってみたいことが浮かんできたりする。しなければならないことがないときの動き。それこそが自発的な動きである。

何もしていないときこそ、自分との出会いのときであり、新たな自己発見のチャンスでもある。

しなければならないことに追われているときは、いわば流されているようなものである。すべきことを自分で選んでいるわけではない。そこに個性は乏しい。何もすべきことを与えられていない自由な状況こそ、個性があふれ出すきっかけになる。

自分らしく生きたいというのは、多くの現代人が口にする言葉だが、自由な状況でこそ問われるのが自分らしさである。

時間はいくらでもあるのだから、何もせずに自由に漂ってみればいい。そのうち気になることが出てきたら、試しに動いてみればいい。もう勤勉に動く必要はないのだから、気ままに過ごし、自由な状況の中に自分を解き放ってみよう。

昔から散歩しながらあれこれ思索に耽る人がいるが、それも豊かな時間の過ごし方と言えるだろう。テレビを見たり、スマートフォンをいじったり、人と話したりしているときは、目の前の世界に気持ちがつなぎ止められているため、自分の心の中の世界に入り込んでいけない。

散歩のように心が自由に漂っているときこそ、自分の世界に浸るチャンスである。

子ども時代や青春時代を取り戻すつもりで漂ってみる

これまでも述べてきた読書に関しても、現役時代は仕事に役立てようとしたことが多かったのではないか。でも、退職後は遊びとして楽しむ、そのためだけに読めばいいのである。

若い頃に書物に親しんでいた人も、現役時代にはなかなかそんな時間はもてなかったのではないだろうか。いつか暇になったらじっくり読もうと思って買っておいた本が家に溜まっているという人もいるだろう。

そのような人も、いざ暇ができてみると、何だか読む気力が湧かない、やっぱりもっと若いときに読んでおくべきだったなどと嘆く。だが、今さらそんなことを言ってもしようがない。

本をじっくり読む気力が湧かないといっても、それは老化によって脳が劣化したというわけではない。慣れの問題が大きい。

得意先に営業をして回ったり、事務的な書類を作成したり、会議に出たり、契約相手と交渉したりと、実務的な生活に浸っていると、効率的に動く癖が身に染みついてしまい、本とじっくり向き合い、その世界に入り込んでいく心のモードになりにくいのだ。そこは慣れるしかない。

家に溜まっている本を読むのもいいが、そこに義務感が付随すると、どうしても気力が湧きにくい。そんなときは新鮮な気分で書物に向き合うことを心がけたい。

ただ面白そうだから読む、何となく気になるから読む、いわば遊びとして読むのである。仕事に直接役立つ実務的な本ばかり読んでいた頃と比べて、はるかに贅沢な時間を過ごしていると言ってよいだろう。

勤勉に働き続けてくると、遊ぶ楽しさから遠ざかってしまう。遊ぶ楽しさは、それが効率や実利とは無縁であるところからもたらされる。

子どもの頃に多くの人がはまったプラモデルもパズルも、そのプロセスが楽しくてワクワクするのであって、完成してしまったらもう楽しみもおしまいとなる。

本を読んで楽しむのも、読んでいる途中がワクワクして楽しいのであって、読み終わったら楽しみの時間も終わってしまう。だから、終わりに近づくと、「もうすぐ終わってしまう」と淋しい気持ちになり、わざとゆっくり読むという人もいるくらいである。効率性の原理とはまったく無縁の世界なのである。

青春時代に友だちとああだこうだとしゃべって暇を潰すのが楽しかったのも、仕事上の打ち合わせなどと違って、まったく無目的に心が漂っていたからである。

定年後の生活を思う存分楽しむには、子ども時代の心や青春時代の心を取り戻すつもりで無目的に漂ってみるのもよいだろう。そこで大切なのは、無駄を楽しむ気持ちの余裕をもつことだ。

そのためには、現役時代に身に染みついてしまった「ムダ=悪」という発想を捨てることである。功利的な観点からは何の役にも立たずムダであっても、道草気分で積極的に楽しんでしまう心の余裕をもつことである。むしろムダだからこそ楽しいといった境地に達するべきではないか。

目的地に向かって一目散に急ごうとする大人は、道端のものにいちいち興味を示して直線的に進んでくれない子どもにイライラするかもしれない。そこには時間がもったいないといった意識があるはずだが、ほんとうにもったいない時間の使い方をしているのはどっちだろうか。

歩き始めの子どもにとっては、道を歩きながら目に触れるすべてが珍しく、ワクワクするほど刺激的なのである。花が咲いていれば、近づいて触ってみたい。匂いもかいでみたい。アリがエサを運んでいれば、どこに行くのか見届けたい。チョウチョが飛んでいれば追いかけたい。バッタが跳ぶのが見えれば、やはり追いかけてみたい。

このような時間の過ごし方をする子どもと比べて、目的地に到達するための単なる手段としてただひたすら道を歩く大人は、非常に無味乾燥な時間を過ごしていると言わざるを得ない。もっとムダを楽しむ心の余裕をもつことで、豊かな時を過ごすことができる。

どこかに行く途中で道を間違えて意図しない場所に迷い込んだようなときも、時間の許す限り、急いで軌道修正したりせずに、たまたま訪れた場所を楽しんでみる。好奇心をもって街並みを歩き、気になる店があれば覗き、公園があればベンチに座って周囲を観察し、腹が減っていれば食欲をそそる店に入ってみる。

本や雑誌、新聞などを読むにも、役立ちそうな情報に目を通すといった姿勢を捨てるように心がける。そんなふうに過ごすことで自由な状況に徐々に馴染んでいくはずだ。

榎本 博明 MP人間科学研究所 代表/心理学博士

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