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<高橋維新「アメトーーク」批評の批判に反論?>「アメトーーク」を面白くするための3つの方法

メディアゴン / 2015年11月21日 7時30分

高橋維新[弁護士]

* * *

筆者は、テレビ朝日「アメトーーク」の視聴後批評を毎週記事として執筆している。分析の基本的な視座は、「アメトーーク」という番組は「何かをバカにする回」はおもしろいが、「何かを褒める回」はおもしろくないというものである。

「アメトーーク」は、トークゲストが基本的に芸人で固められるため、第一次的には「ファニー(おかしさ、こっけいさ)」が志向されていると言ってよい。

そして、笑いとは「普通の状態」からのズレから生まれるものであると言える。「普通の状態」というのは「多数派の状態」とほぼ同義なので、そこからのズレを指摘するのは、常に少数派に対する差別の意味合いを含んでいる。笑いは、そういうところに本質がある業の深い所業なのである。そこで、きれいごとを言って嘘をついてもしょうがない。

だからこそ、差別の意味合いが含まれる「何かをバカにする回」はおもしろいのである。バカにする対象が、多数派とは違うこと、それがいかにおかしいことかを指摘することで、ズレの存在が視聴者に認識され、笑いが生まれる。

他方、「何かを褒める回」というのはこの作用がない。例えば、「スーパーマリオ」を題材にするのであれば、マリオがいい年をしてオーバーオールを着ていることをバカにしなければ笑いは生まれない。マリオがいかにすごいかを褒めたところで、笑えるものではない。

筆者は「アメトーーク」がファニー志向の番組である以上、毎週を「何かをバカにする回」で固めてほしいと思っているが、そうはなっていない。なぜかは分からないが、もしかしたら「何かをバカにするだけ」でいるとネタ切れになるのかもしれない。

そこで、どうにかして「何かを褒める回」をおもしろくすることはできないかと考えてみた。

1.皮をかぶる

何かを褒めても、例外的に笑いが生まれることがある。それは、一つには表層的な部分で賞賛をしているだけであって、実質的にはバカにしている場合である。「皮肉」とか「嫌味」などと言われる技術である。

本来褒めるようなところを持っていないものを題材にして、どうでもいい部分を褒めちぎるのである。過去の例だと、ブラックマヨネーズ・吉田を取り扱った回はそのような傾向があった(http://mediagong.jp/?p=10933)。芸人としての吉田の技術を褒める体で番組が始まったのに、結局おかしなところが指摘されて吉田が憤慨するという流れが笑いを生んでいた。

ただ、これも中途半端だった印象である。収録開始の段階で、どういう方向に転がすかがしっかりと固まっていなかったからだろう。

この手の企画をやるとすれば、最初から「何かを褒める企画の体で実際はバカにする」というコンセプトありきのもとに準備を行い、芸人たちにも打ち合わせでこの企画趣旨をきちんと説明したうえで収録に臨むべきである。

ここをはっきりさせずに収録してしまうと、芸人たちも動き方が分からなくなり、褒める言動とバカにする言動が混交して中途半端なことになる。

実際にやるとしたら、どのような題材があるだろうか。

「アメトーーク」における格好の題材は普段ほとんど何もしていない蛍原徹(雨上がり決死隊)であろう。「蛍原は、実はすごいんだぞ芸人」というような題名にして、実際は蛍原をけなしまくるというような内容にすれば、素材もたくさん用意できるだろう。別に蛍原でなくてもバカにできる素材を持っている芸人であれば誰でもいい。

過去には、ダチョウ倶楽部、スピードワゴン小沢、出川哲朗、狩野英孝などが、やり玉に挙げられる企画も行われている。ただこれらの放映回では、これらの芸人をバカにするということが企画名の段階からはっきりしていた。

筆者が提唱したいのは、これを最初の段階では隠すというやり方だ。そうすれば、いい気持ちで収録にやってきたやり玉芸人が、実際にはケチョンケチョンにされることでキレ芸を発揮できるし、喧嘩コントもすることができる。

もっとも、これをやるにはやり玉芸人にキレる芝居の能力がある必要がある。蛍原にそんな技はさらさらないだろうから、結局、他の人を探した方がいいだろう。

2.変人性の発揮

もう一つ、何かを褒めて笑いを生む手段がある。褒めている人を馬鹿にすることである。そんなに褒めるようなものでもないものを偏執狂的に褒めている人がいれば、そこには「そんなに褒めるようなものでもないものを偏愛している」というズレがあるため、笑いが生まれる。

題材は何でもいいが、例えば「ゾウリムシ芸人」である。ゾウリムシが好きな芸人に集まってもらい、ゾウリムシの何がどう魅力的かを愛タップリに語ってもらう。そこに、MCや横にいるゲストがツッコミを入れる。ここには、ゾウリムシが好きな変人をバカにして笑うという構造がある。

「アメトーーク」では、特にケンドーコバヤシにこの動きが目立つ。何かを褒める回でも、「そこ褒めるか?」というようなツッコミどころのある内容の賞賛をして笑いをとってくる。

例えば、ある漫画作品がテーマになっている回で、登場するマイナーキャラへの愛を語るといったような具合である。これは、どんなテーマであろうとまず笑いをとろうとするケンコバのプロ根性の発露にほかならない。

3.本気のドキュメンタリー

上記に挙げた2つは、いずれも実質的には「何かをバカにする企画」である。

「1」ではやり玉芸人を、「2」では褒め手の芸人をバカにしている。メインテーマはこちらの「何かをバカにする」部分であり、何かを褒めるというのはこのメインテーマを引き出すためのきっかけでしかない。結局、何かをバカにしないと笑いは生まれないのである。

無論、「何かを褒める形」でも、笑い以外の種類のエンターテインメントなら作れる。あり得るとすれば、インタレスティング・感動といった部分のエンターテインメントになる。

これをやるとなると、テーマに対して綿密な取材を行い、清濁双方の情報を広く集める必要がある。その中で、インタレスティングあるいはムービングな部分を要領よく伝えていけばよい。

簡単に書いているが、それほど簡単なことではない。よい取材をするには色々な場所に行く必要があるし、多くの人の話を聞く必要がある。負の側面を伝えなければならない可能性もあるので、取材に協力的な人ばかりじゃないだろう。

情報の取捨選択や編集にも高い水準の能力と志が必要である。取材と編集に時間と労力をかけなければいいものはできないので、タレントのギャラに金をかけている余裕はない。そもそも、取材で分かったことを分かりやすく伝えられればいいので、タレントは不要である。そのため、芸人も呼ばなければ、雨上がり決死隊も要らない。

「アメトーーク」における「何かを褒める回」は、芸人たちが自分の知っていることをしゃべっているだけであって、それ以上の取材にあまり労力がかけられていない。テーマとのタイアップ企画であることも多く、その場合は負の側面が伝えられない。

結局、視聴者の知的興味に対する訴求力も中途半端なものになってしまう。だから、芸人を入れておもしろい話をさせ、ファニーの部分をフワッと足してお茶を濁すしかない。その結果として、ファニーもインタレスティングも中途半端などうしようもない代物が出来上がるのである。

ただ、ここに書いてあることを全て実現すれば、出来上がった番組は最早「アメトーーク」ではない。「アメトーーク」はそもそも「芸人だらけのファニーなトーク番組」というのが番組の大テーマであると考えられるため、番組の大テーマを捨て去ってまで何かを褒めることもないだろう。

結局「何かをバカにする回」に徹し続けるのが最良の選択なのである。

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