「理想の未亡人は描いても、理想の妻は描かなかった」小津安二郎が生涯独身を貫いた理由
プレジデントオンライン / 2022年1月14日 9時15分
※本稿は、長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■アメリカの女優にファンレターを書いた浪人時代
小津安二郎(1903~1963)は家族をテーマにした作品、それも娘の結婚を描いた映画で有名な監督ですが、それでいて自身は生涯独身。あれだけ女優を美しく撮るのですから女性に関心がないはずはなく、おまけに当人は長身の紳士でもあったというのに、実に不思議です。
小津安二郎は、本居宣長も出した伊勢松阪の名門商家・小津家の一員として生まれました、幼少期は一時東京に住み、小学校の途中から松阪に移り、三重県立第四中学に進みます。この中学時代に映画ファンになり、次第にのめり込んでいくことになります。
カメラ好きの少年でもあり〈僕の写真もずいぶん古いもので、はじめてキャメラをいじったのが中学生時分にベス単、それからブロニー〉(石川欣一との対談「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」、『カメラ毎日』1954年)と語っており、なかなか贅沢なカメラ小僧だったことが分かります。
ちなみにベス単とは「ヴェストポケット・コダック」という小型カメラ。カメラ好きはその後も続き、ライカも1930年前後に購入しています。
映画好きが高じるにしたがって中学後半はかなりの不良になっており、卒業後は家系に則って商業の道に進んでほしいという親の求めに従って神戸高等商業、名古屋高等商業を受験しましたが、いずれも不合格。
翌年には三重県師範学校を受けましたがダメでした。小学校の代用教員を一年務めたのち上京し、けっきょく小津は叔父の紹介で1923(大正12)年に松竹に就職しました。
これが小津の当初からの計画だったかどうかは不明ながら、浪人中も映画は欠かさず、アメリカの女優にせっせとファンレターを書いており、確信犯の匂いがします。
ちなみに小津は、1924年に徴兵年齢となり、一年志願兵(その方が期間が短い)として兵役につきますが、能力も統率力もあるのに、わざと軍曹試験に落ち、合格者より先に除隊しています。一日でも早く撮影所に戻りたかったのです。
■兵舎生活のなかで欲した叙情的なもの
撮影所に戻ると、脚本修業をし、助監督を務め、1927年に「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」の辞令を受け、時代劇『懺悔の刃』を撮りました。しかしその完成間際に、予想外の予備役召集を受け、一部を他の監督に委ねることになります。
このため初監督作品ながら自分の作品という気がしなかったと回想しています。ちなみに最初期の小津作品7本は現存しておらず、観ることが出来ません。
予備役召集は教練中心でしたが、入隊中は佐藤春夫の詩を思い出したり〈山にいた時の煙草屋の娘のことか、或る町の或る娘のことを思ったり〉(『小津安二郎君の手紙』)していますが、特定の女性のことというより、殺伐とした兵舎生活のなかで何となく抒情的なものを欲したのでしょう。
もしかしたら記憶から引っ張り出したのは現実の思い出ではなく、シナリオ的空想だったのかもしれません。
その後、松竹蒲田撮影所の組織改変に伴い現代物に移った小津は、矢継ぎ早に映画を撮っています。多くはラブ要素のある青春コメディーでした。現存する最古の作品『学生ロマンス 若き日』(1929)はモダニズム版の『私をスキーに連れてって』みたいな作品で、小津の方がおしゃれです。
小津はこの頃、ドイツの監督エルンスト・ルビッチを好み、無声映画でも巧みに感情の機微を表現するその作風から、多くを学びました。
■「女優は商品、お前らは丁稚」
小津作品の話に踏み込むと際限がないので控えますが、フィルムが現存しない『お嬢さん』(1930)はギャグとロマンと冒険を詰め込んだ画期的な作品だったそうで、続く『淑女と髯』(1931)は昭和戦後を経て今日に至る少女漫画やその映像化である〈スイーツ映画〉の王道を見事に完成させており、これだけでも小津の構成力がよくわかります。
恋愛映画が人気の時代とはいえ、すぐれたラブ・コメディをたくさん作った小津自身が、恋愛に関心がなかったとは思えないのですが、噂はともかく具体的な話は残っていません。
撮影所の製作部は徒弟制度で、社員は「女優は商品、お前らは丁稚。決して商品に手を出してはならぬ」と厳命されていたそうで、小津は自身の美意識としても、そんな真似はしたくなかったのかもしれません。もっとも監督ともなると例外なようで、池田義信監督と大女優栗島すみ子は1923年に結婚しています。
『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(1932)、『出来ごころ』(1933)、『浮草物語』(1934)が3年連続でキネマ旬報ベストワンに選ばれた小津は、押しも押されもせぬ大監督となり、見合いの話が持ち込まれますが、断っています。
■戦後も続いた密かな相思相愛
その一方、小津には31歳の時に出会った密かな愛人がいました。当時、小田原の「清風」にいた森栄という芸者で、たいへんな美人の上に笛の名手。小津が大陸に出征した際には三島駅まで見送りに来て、小津に自分の大切なお守りを渡し、帰還した小津は「おかげで無事に戻ったよ」とそれを返しています。二人のあいだは相思相愛といえるものでした。
とはいえ親や親族が納得する相手ではありません。当人たちは気にしなくとも、世間がうるさかった時代。自分のスタイルにこだわる小津は、煩わしい波風が立つのを避けました。ふたりの密かな関係は戦後まで続きます。
ちなみに小津は1935年から母と同居していました。母は深川の小津家で兄夫婦と暮らしていましたが、嫁姑の折り合いが悪く、見かねた小津が母と弟を引き取っていたのです。子供にとっては優しく面倒見のいい母ながら、気の強いところがあり、自分は兄の轍を踏むまいと思っていた節があります。
そう心に決めてしまえば、却って小津は自由に、自分の目と心を楽しませてくれる女性を思う存分眺めることが出来たのではないでしょうか。小津監督が女性を美しく撮れたのは、そこに自分の願望や美意識はあっても、欲望や下心はなかったからだと感じます。
でなければ、女優にあそこまで冷静に厳しくなれない。小津は何度もやり直しをさせ、「8回目の手つきで、目線の動かし方は32回目で、もう一度」などという指示を出したといわれ、現場の緊張感は、一歩間違えば大事故が起きるアクション映画以上だったといいます。
もっとも、セットから出た後の小津は気さくでユーモラスな人柄で、キャストもスタッフも信頼していたそうですが。
■手をふれるより、眺めていたいひと
そんな小津が気に入っていた女性がいました。
一人は大船撮影所近くの食堂「月ヶ瀬」の看板娘・杉戸益子。彼女は撮影所みんなのマスコット的存在で、小津も杉戸家とは家族ぐるみで付き合いました。益子は二枚目俳優・佐田啓二と結婚しますが、佐田は小津の戦後作品の常連であり、その後も暖かな付き合いが続きました。
もう一人はいうまでもなく、女優の原節子です。原は戦前から活躍していた美人女優ですが、小津作品への起用は意外と遅く、1949年の『晩春』が最初。この時小津は45歳、原節子28歳。寡(やもめ)の父を気遣って、一人娘が婚期を逸するのを懸念した父(笠智衆)が、自分も再婚するふりをしながら娘を送り出す話です。
もともと原節子は美人女優ですが、『晩春』の彼女は神々しいばかりの気迫があって、「小津監督は原節子に惚れている」と囁かれました。そうした噂は『麦秋』(51)、『東京物語』(53)と出演作が出るたびに高まり、結婚の噂が記事になるほどでした。
小津も噂が立っていることは知っており、まんざらでもない様子でしたが、だからといって何らかの行動をすることはなかったようです。原節子には別に好きな相手がいたといわれ、小津もそれを察していたのか、二人の関係は映画を通しての絆以上のものにはなりませんでした。
小津が映像で描いた原節子の役柄は、理想の娘、理想の未亡人、理想の母であり、そこに理想の妻はなかったのです。
■最年長が最年少に酒を注ぎ続ける
カラーになってからの小津映画は、表面上は少し懐かしい生活を描いた、切なくも平穏なホームドラマの感があります。しかし、その完成度の高さは、ストーリイとは別の次元での厳格さ、峻厳さが感じられます。
思い出すのは、例えばこんなエピソード。
1963年の正月、監督たちが集まった新年会の席上、最年長の小津は最年少の吉田喜重がいる末席に来て、ほぼ無言で酒を注ぎ続け、そのために正月の宴会がお通夜の様に静まり返ってしまいました。
この理由を吉田は、小津監督の『小早川家の秋』(61)を若者に媚びていると批判したことへの小津の答えだったと解釈しています。小津は実際に若い吉田に「媚びて」見せたわけで、年長者から媚びられることが実は如何に怖ろしいかを示したのではないかと思います。
一方、斬新な表現に目が行きがちな若手監督にとって、小津は完璧な豆腐料理を毎回きっちり作るだけの監督で、見事ではあっても見習うべき存在とは思えなかったのかもしれません。山田洋二監督も若い頃は、同じような作品を作り続ける小津を、批判的に眺めていました。
それがのちに自分も『男はつらいよ』で同じような作品を作り続けることになったのは、運命かもしれません。ちなみに後年、山田は小津の『東京物語』のリメイクとも言うべき『東京家族』(2013)を製作しています。
■映画と人生を統御する
小津の美意識が戦後の世情とはズレたところがあったのは確かでしょう。ただしそのズレは、現に世に存在する親子の感覚のズレであり、どちらが正しいとか間違っているというものではありませんでした。
そもそも映画表現の正否は道徳的価値や社会性ではなく、美醜で計るというのが、小津流だったのではないかと思います。それが映画芸術における「道徳」です。小津の在り方は、他の何者でもなく、小津の美意識によって統御されていました。
小津は「映画はドラマ、アクシデントではない」とも述べたそうで、画面の隅々まで、俳優の瞬きさえも統御しようとした小津らしい言葉です。映画には映り込みというものが生じがちで、青空を好んだのも雲が勝手な動きをするのを嫌ったのかも……と思ってしまいます。
自分の人生を統御するには、妻子は持たない方がいい。そうしてまでも創りたいものが、自分にはある。それが小津安二郎の美学であり覚悟だったのでしょう。
ひとりで生きる。自分らしく生きる。それは身勝手に生きることではなく、自分で定めたルールに従い、誇りをもって矜持を保ちながら、「自分の仕事」をまっとうすることにほかなりません。
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評論家、アンソロジスト
1962年茨城県生まれ。鶴見大学大学院歯学研究科修了。歯科医の傍ら、近代文学、SF、ミステリー、映画、アニメなど幅広い領域を新たな視点で読み解く。日本SF大賞、日本推理作家協会賞、本格ミステリ大賞(いずれも評論・研究部門)を受賞。著書多数。
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(評論家、アンソロジスト 長山 靖生)
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