支持率ゼロの無名政治家だったのに…プーチンがロシアの「皇帝」になれた納得の理由
プレジデントオンライン / 2022年3月17日 17時15分
※本稿は、グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■プーチンを生み育てたKGB(ソ連国家保安委員会)とは何か
ウクライナ戦争を考えるうえで、そもそもプーチンはどのような経緯で権力を持ち、大統領になったのかを確認したほうがいいだろう。
ご存知のとおり、プーチンはソ連国家保安委員会(いわゆるKGB)の出身である。ソ連においては時期や正式名称はどうであれ、「国家保安」を担当する組織はつねに特別の意味を持っていた。
治安維持や国境警備、諜報活動という表の任務以外に、対外謀略、思想警察、政治的暗殺、人民の抑圧や大量処刑など、全体主義体制における恐怖政治の実行が裏の担当分野であった。
言うまでもなく、恐怖政治の実行は全体主義体制維持に不可欠である。
「国家保安」を担当する組織は、他の各省庁局などと比べれば特別扱いをされており、独自の人事体制を持っていた。その名前や形式は時代とともに変わっており、ソ連初期のチェーカー、スターリン抑圧時代の内務人民委員部(NKVD)、ソ連後期のKGB、ロシア連邦時代のFSB(ロシア連邦保安庁)といった名称である。
■「監視や恐怖を通して支配」するKGBの思想
だが、その基本的な考え方や手法は連綿として変わっていない。目的達成のためならいかなる手段でも使い、監視や恐怖を通して社会をコントロールすることである。
スターリン体制においては、対外謀略に加えて国内の大量殺戮を担当していたNKVD(スターリン末期は国家保安省)が絶大な力を持っていた。しかしスターリンの死後、1953年にソ連内部で権力闘争が起こった。
対立構造は国家保安系勢力のトップだったラヴレンチー・ベリヤと共産党主導政治を押していたニキータ・フルシチョフの二人である。両者の闘争でフルシチョフが勝利し、ベリヤは処刑された。そして再編成後にできた国家保安委員会(KGB)は、党の支配下に置かれた。
しかし権力闘争に敗れたとはいえ、KGBは強力な組織として存在し続け、その「監視や恐怖を通しての支配」という思想も変わらなかった。
■KGBから「ロシア連邦保安庁(FSB)」へ…権力の掌握に成功
ソ連崩壊直前の1991年8月、KGBは反ゴルバチョフのクーデターに参加し、再び権力を握ることを試みたが、クーデター失敗やソ連崩壊でそのチャンスを逃した。しかし、新しいチャンスはそれほど時が経たない内に訪れた。
それはエリツィン末期のことである。
当時、ロシアは酷い状況にあった。至る所に汚職が蔓延しており、1998年の経済危機とルーブル暴落により、国民生活は困窮を極めた。第一次チェチェン戦争でロシア軍が敗北したが、新興財閥であるオリガルヒは莫大な富を私物化し、不当な利益を貪っていた。
来る2000年の大統領選挙において、ロシア共産党の勝利は現実的となっており、それを恐れたのが、エリツィン体制を支えていたオリガルヒである。共産党は企業の国営化や不当に得た財産の没収を主張していたからだ。
エリツィン自身も1991年にソ連共産党から権力を奪い取ったことから、共産党が再び政権を取れば、ただでは済まなかっただろう。だからエリツィン側近やオリガルヒは、彼らの安全や財産を保証し、操りやすい後継者を探り出したのだ。
ただし軍に頼り、軍事独裁体制を作ることはあまりにもリスクが高かったので、権力維持のために軍を使うことをオリガルヒは選択しなかった。
代わりに、彼らは謀略に長たけているFSB(ロシア連邦保安庁)に頼ることにした。FSBであれば、様々な工作を通じて、彼らの権力を維持する方法を見つけてくれるだろう、とオリガルヒは思っていた。
こうしてオリガルヒはFSBを利用しようとしたが、じつはFSB自体が権力掌握のチャンスを待っていた。そして現実に、権力を握ることに成功したのである。
■無名だったプーチンが最高権力者になれたワケ
オリガルヒの各財閥は、保安系出身者と近い関係にあった。エリツィンに近いロマン・アブラモヴィッチとボリス・ベレゾフスキーは現役FSB長官のウラジーミル・プーチンを推していたが、他のオリガルヒはそれぞれに近いFSB関係者を推していた。
しかし組織としてのFSBからすると、後継者に誰が選ばれようが、オリガルヒが保安系出身者に頼ることを選んだ時点で、FSBがロシアを乗っ取ることは時間の問題だった。
結局、人事権は大統領のエリツィンにあったので、FSB長官のプーチン大佐が首相に任命され、事実上の後継者指名を受けた。首相となったプーチンは、一般市民の間で全くの無名であった。当然、支持率はゼロに近い。しかも、国民に嫌われたエリツィンから後継者指名を受けたことがマイナスに働いている。
この状況では、選挙に到底勝てない。そこで、FSBは得意の謀略を実行することにした。
■このままでは選挙に勝てない…プーチンを救ったFSBの“お家芸”
古今東西、権力者の支持率を上げる常套手段とは「敵」を作ることだ。
プーチンは1999年8月9日に首相に任命されたが、その前々日の7日に、当時、事実上(第一次チェチェン戦争で勝利することによって)独立していたチェチェン・イチケリア共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。
しかし、それだけでは当時のロシア世論を好戦的にして、指導者の周りに結束させるには不十分だった。なぜなら当時のロシア人の認識では、侵攻した武装集団を追い出して、チェチェン共和国からロシアへの侵入を防ぐだけで十分だったからだ。
当時の世論は大規模な戦争を望まなかった。しかも、武装集団の侵攻は指導者の独断であり、チェチェン・イチケリア共和国大統領のアスラン・マスハドフは侵攻に反対で、武装集団の侵攻を批判した。彼は8月~9月の間に、ロシアに対して戦争の阻止を呼びかけ、ロシア政府に和平交渉を申し込んだ。
だが、FSBがこのような絶好の機会を逃すわけがなかった。
1999年9月前半にロシアの四カ所で民間マンションが爆破され、合計307人が死亡した。ロシア政府はすぐに、チェチェン系テロリストによるテロ攻撃だと発表した。ロシアメディアは一斉にテロに対する恐怖を誘導し、「対テロ」戦争を煽動して世論は集団ヒステリーの状態になった。
■「対テロ」戦争を扇動して世論を操作するシンプルな方法
そして、この状態でプーチンが国民をテロリストから守る「強いリーダーシップを発揮できる指導者」としてメディアに映されはじめたのである。
9月30日にロシア軍はチェチェン共和国の国境を越えて、第二次チェチェン戦争は始まった。そして同時に、プーチンの支持率が上がり始めた。この経緯だけでも、民間マンションの爆破がFSBの謀略だったのではないか、という疑いが生じる。
次のエピソードは、その疑いをさらに濃厚にする。
先述の民間マンションの爆破は4カ所で起きた。9月4日はダゲスタン共和国のブイナクスク市、9月8日はモスクワ市、9月13日はモスクワ市、9月16日はヴォルゴドンスク市。それぞれ数十名ずつの死者が出ている。その間に、以下のエピソードが起きている。
まず、9月13日にロシアのドゥーマ(連邦議会下院、ロシアの国会)議長のゲンナジー・セレズニョフはドゥーマ運営会の会議においてこのように発言した。「今日の早朝、ヴォルゴドンスクでマンションが爆破されたという報告を受けた」。しかしその日に爆破されたのは、ヴォルゴドンスクではなく、モスクワのマンションだったのだ。
ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されたのは、三日後の16日である。つまり、議長に報告をした人は爆破の前からすでにヴォルゴドンスクでマンションが爆破されるのを知っていたことになる。どう見てもおかしな話だ。
■裏付けられたFSBの謀略
このエピソードだけで、マンションの爆破がFSBの謀略だったことはほぼ確信できる。
だが、次の出来事を見るとその「ほぼ」すら消える。それは9月22日にリャザン市で起きたことだ。
ある民間マンションの住民が、怪しい人影を見かけた。彼らはマンションの地下にいくつかの袋を運んでいた。住民はすぐ警察を呼び、駆けつけた警察は爆発物とタイマーを見つけてマンションの住民に避難命令を出した。
同時にリャザン警察やFSBリャザン市局はテロ未遂で捜査を始め、一日のうちに市内にまだ潜伏していたテロリストを見つけて、逮捕した。
そして逮捕したテロリストがFSB所属であることが分かった。さらに翌日の23日には、モスクワで内務省総会が行われることになっていた。
登壇したウラジーミル・ルシャイロ内務大臣(当時)は「我が警察が昨日、リャザンで新たなマンション爆破を阻止することができた」と発言している。ということは、ルシャイロはFSBの謀略について知らされなかったのだ。
■多くのロシア人はプロパガンダを信じ、プーチンを選んだ
ルシャイロ発言の30分後、同じ総会に出席したニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は慌てて会場から脱出し、報道陣営に向かって以下のように発言している。
「テロ攻撃が阻止されたわけではない。省庁同士の連絡がうまく行かなかったようだ。これは演習だった。袋のなかにあったのは爆発物ではなく、砂糖だった」。
つまり爆破が失敗し、FSBの職員が逮捕されたという報告を受けたパトルシェフは、爆破を起こしたのがチェチェンのテロリストではなく、FSBだったという事実がばれないように、「じつは演習だった」という新たな嘘を流したのである。
これらの経緯をすべて並べて考えると、一連のマンション爆破は、戦争の危機を煽動してプーチンを選挙に勝たせるための、FSBによる謀略だったということを疑う余地はないだろう。恐ろしいことに、FSBが謀略の実行中にこれほどのへまを重ねたにもかかわらず、謀略は成功し、プーチンの支持率は実際に上がり始めた。
多くのロシア人は国家のプロパガンダを信じ、対チェチェン戦争を支持してしまった。何万人もの民間人の死をもたらした第二次チェチェン戦争が、プーチン当選の要(かなめ)となったのである。
■プーチン大統領の誕生…FSB出身者が主要ポストを独占
こうしてFSBはロシアの中枢を乗っ取ることに成功し、1999年12月31日にはエリツィンが大統領を辞任することを表明し、プーチンが大統領代行兼首相となった。さらに2000年3月26日、一回目の投票で51.95%の票を獲得し、プーチンが正式にロシア大統領となった。
当選後、プーチンは真っ先に言論統制を開始した。最も有名だったのは、プーチンに対抗するオリガルヒのグシンスキーが所有する大手テレビ局NTV(ロシア語表記:НTB)の強奪だった。NTVは全国的に人気のテレビ局だったが、その理由は首相時代からプーチンを批判していたからである。
大統領当選後、一年も経たないうちに、プーチン政権はNTVをグシンスキーから強奪し、所有権をガスプロム(天然資源を扱うロシア最大の国家独占企業)に委譲した。NTVを強奪する際、治安部隊はテレビ局の本部を占拠し、新しい所有者を認める職員以外は建物の中に入れなかった。
また、それまでロシア連邦各州の州知事は選挙によって選ばれたが、プーチンは制度を変えてしまい、州知事を大統領が直接、任命できるようにした。知事が任命される国のどこが「連邦」なのか、ということなのだが。さらに、国家の主要ポストに次第にFSB出身者が任命されるようになり、FSBによるロシアの支配が確立した。
■ロシアは「謀略機関の所有する国家」
このように、プーチンは自国民を大量に殺すことによって権力を握った。
今のロシアは、大量虐殺や対外謀略を実行した残酷な組織であるNKVD―KGB―FSBに延々と支配され続けている。つまりロシアは「国家の謀略機関」を所有しているのではなく、「謀略機関の所有する国家」なのだ。
言い換えれば、全体主義体制を維持するために監視や恐怖をもたらす「道具」が主体性を持ち、国家そのものを自分の道具にしたのである。
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1987年、ウクライナ・キエフ生まれ。2010年から11年まで早稲田大学で語学留学。同年、日本語能力検定試験1級合格。12年、キエフ国立大学日本語専攻卒業。13年、京都大学へ留学。19年3月、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門優秀賞(2016年)。ウクライナ情勢、世界情勢について講演・執筆活動を行なっている。『プーチン幻想 「ロシアの正体」と日本の危機』がデビュー作となる。
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(国際政治学者 グレンコ・アンドリー)
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