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なぜ沖縄の近代化は遅れたのか…日本に突然編入されて「沖縄県」となった琉球王国の数奇な歴史

プレジデントオンライン / 2022年6月6日 12時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/O_P_C

琉球王国は1872年に琉球藩として日本に組み込まれ、その後「琉球処分」で沖縄県となった。志學館大学の原口泉教授は「日本と中国・清は琉球の帰属を巡ってせめぎ合いを続けていた。日本が『琉球処分』としたのは内政問題として処理したかったためだが、現地では武力での強行に抗う民族運動が起きた」という――。

※本稿は、原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■大久保利通を悩ませた島津久光と琉球王尚泰

明治初期、維新政府の大久保利通の頭を悩ませた2人の人物がいた。島津久光と琉球王尚泰である。

久光はかつての主君で「玩古道人(がんこどうじん)」と自称する保守派。1871年の廃藩置県は久光への裏切りでしか断行できなかった。久光は花火を打ち上げて怒りを晴らそうとした。廃藩後も全国の旧領主層の輿望を担った久光への対応に大久保は苦慮し、「左大臣」の待遇で政府閣僚にしたものの、大久保の辞職を迫る久光に匙を投げざるを得なかった。

一方、1872年、久光の側近で外務官僚の伊地知貞馨は沖縄に渡り、『沖縄志』を編纂している。同年、維新慶賀使は「尚泰を琉球藩王と為し華族に列する」旨の明治天皇の冊封詔書を手渡された。この時点で、琉球は日本に組み込まれ、琉球藩となったのである。日本政府は「唐の世」を終わらせたかったのだ。

■日本政府は「国家統治の証し」の準備に奔走

しかし、あいかわらず日中両属であった琉球の帰属は大きな国際問題であった。中国は冊封使が復命した多くの地志、地理書を持っていたが、日本に満足な地志はなかった。新井白石の『南島志』は琉球使節程順則や玉城朝薫からの聞書程度の書であった。地志は国家統治の証しとして備えておかねばならないものであり、伊地知の『沖縄志』の編纂の意図もそこにあった。

伊地知は1873年3月、沖縄へ出張し、久米・石垣・宮古・西表・与那国の五島に国旗を掲揚することなどの外務省指令を琉球当局に通達している。

大久保は何としても尚泰に東京へ移住してもらいたかったが、無理であった。日本では1871年から官営の郵便制度が始められていた。1874年に発足した万国郵便連合に1877年いちはやく加盟したのも、東京あてに沖縄からでも横浜からでも同一料金(郵便料金の全国均一制)ということをアピールしたかったからである。

そんな状況の中、1871年、歴史を変えた事件が勃発した。宮古島の役人ら66人が台湾に漂着し、54人が原住民に殺害されたのである。

■「自国民」殺害事件への報復として日本軍が台湾へ

琉球人の台湾遭難事件に関して、副島種臣外務卿は台湾出兵計画を胸にして、1873年6月、清国の総理衙門諸大臣と北京で会談した。

成果があった。役人らを殺害した台湾の「生蕃」の居住地は清国の管轄外だとの言質を得たのである。当時の駐日アメリカ公使・デ・ロングらの「無主地先占論」のアドバイスを受け、出兵計画が具体化された。「自国民」を殺害されたことへの報復を行ったと主張し、琉球が日本の領土であると認めさせようとしたのである。

この計画は、副島が下野したため大久保に引き継がれた。琉球藩がこれに反対し、中止を要請したが、1874年5月、西郷従道率いる3600人余りの日本軍(鹿児島県の士族が圧倒的に多かった)が台湾先住民の居住地を武力制圧した。

清国の抗議に対して、大久保内務卿は自ら全権弁理大臣として北京に乗り込み、不退転の覚悟で直談判した。

■清からの見舞金を取りつけた北京議定書の積み残し

2カ月間の談判は難航したが、駐清英国公使の調停で、日清互換条款(北京議定書)にこぎつけた。大久保の粘り勝ちであった。撫恤金を取りつけたことで大久保は意を強くした。岩倉遣外使節団による条約改正交渉の大失敗が帳消しとなったばかりでなく、盤石の政権基盤を確立することができたのである。

しかし議定書では琉球の日本所属がまだ明確にされていないと判断した大久保は、琉球処分という最後の手段に出ようとした矢先に暗殺された(1878年5月)。

中国の東海岸
写真=iStock.com/Juanmonino
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Juanmonino

清の李鴻章は中国を訪れていたアメリカ前大統領グラントに琉球問題の調停を依頼した。

1879年7月、グラントが来日して大久保の後を継いだ伊藤博文らと協議した結果、日清交渉が再開されることになった。翌年、日本はグラントの助言を採用し、清に対して「分島・改約案」を提案する。すなわち、宮古・八重山を清国に割譲するかわりに、日清修好条規(1871年締結)に中国国内での欧米なみの通商権を認める条文を加える、というものであった。しかし清国は受け入れず、交渉は一時棚上げとなった。

最終的には、日清戦争(1894~95)による日本の勝利で琉球の帰属は日本に確定した。

■「琉球藩廃止、沖縄県設置」宣言への琉球の反応

1879年、内務大丞松田道之が琉球処分官として600人余りの日本兵(熊本鎮台兵)と警官とともに首里城に乗り込み、「琉球藩廃止、沖縄県設置」を宣言した。松田は1879年、大久保の死後、「琉球処分案」を作成していた。警察力による強権合併なのに「処分」としたのはあくまで内政問題として処理したかったからである。

首里城歓会門前に並ぶ明治政府軍の兵士(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
首里城歓会門前に並ぶ明治政府軍の兵士(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

4月4日に沖縄県設置は全国に布告され、翌日鍋島直彬が初代沖縄県令に任命された。旧藩王の尚泰は6月、東京へ。「東京住居」を命ぜられ、1884年に一時帰県を許されたが、これは士族の脱琉渡清を戒めるためでもあった。翌年帰京した尚泰は侯爵となった。

この動きに、従来の日中両属の形で自らの主体性を発揮しようという民族運動があった。琉球救国運動である。『琉球新報』の太田朝敷は、沖縄の進歩を遅らせた最大の原因は士族のこの運動だと厳しく指弾した。

清国へひそかに渡航して清国当局に嘆願する動き(脱清運動)も生まれた。脱清人の林世功(りんせいこう)は決死の覚悟で嘆願書を出すが、その翌年には明治政府と中国の間で分島案が協議されていることを知り、絶望のあまり北京で自害した。林の抗議は米国の前大統領グラントの調停案である、先島を分割する琉球分割条約を阻止した。

■奄美の黒糖を巡るあまりに非情な仕打ち

琉球救国運動はその後の琉球文学の主体性に表れているようだ。また、国民政府が台湾に亡命してから、蒋介石の妻宋美齢などは、琉球は中華民国に属しているというアメリカへの打電を続けていたという。

西郷隆盛は廃藩置県断行後の軍事力強化のため、鹿児島藩全体を常備隊に編成した。廃藩置県後は県士族の利権を守ろうとして奄美の黒糖搾取の旧弊を踏襲した。旧藩時代と同じ仕組みの「大島商社」設立であった。

1877年、黒糖自由売買の許しを得るために西郷を頼って鹿児島に上った島民代表55人は、西郷に会えず、涙橋(鹿児島市郡元)にあった死刑囚の牢獄に入れられてしまった。島民代表は、西南戦争従軍を条件に出獄され、35人が「必死隊」と名付けられ、熊本県で戦った。敗戦後、帰島できたのは半数にも満たなかったという(勝手世(かってゆ)騒動)。

■琉球処分は戦後も今も続いている

琉球処分後も、王府上級士族の特権は温存された。琉清関係を断ち切るためである。県になっても上級士族の特権が保障されれば、彼らの中国依存の体質を改められると考えたのである。切り捨てられた下級士族は路頭に迷った。慣れない士族商法で失敗する者も多かった。その一部は救国運動に希望を託していたが、農村に移住して原野を開墾したりした。その集落を屋取(ヤードゥイ)集落という。

原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)
原口泉『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)

歴代の沖縄県令は旧慣温存策をとった。沖縄では近代日本へ転換するための土地改革である地租改正が遅れ、起業のための国立銀行の設立がもっとも遅れた県となった(第百五十二銀行)。近代化に遅れた県政のまま昭和の戦時体制に入り、県土は焦土と化し、県民の4分の1が、日本史上はじめての地上戦で犠牲になった。

戦後の米軍政27年という長い「アメリカ世(ユー)」では、経済は米軍に依拠せざるを得なかった。基地建設の土地収用法が、日本本土の米軍基地がかつて帝国日本の基地が転用されたことと違っているのは、民間の土地を接収したことにある。軍用地代に依拠せざるを得ない経済体質を生んでしまった。

琉球処分は戦後も今も続いている。沖縄の振興開発費約3000億円、在沖米軍基地維持のための「思いやり予算」の現実を直視しなければならない。沖縄海洋博の建設ラッシュのとき、大きな利益は本土の大手企業に落ちたという地元企業の苦い経験がある。

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原口 泉(はらぐち・いずみ)
志學館大学教授
1947年、鹿児島県生まれ。東京大学文学部国史学科卒。同大学大学院修士課程修了、博士課程単位取得。鹿児島大学法文学部教授を経て、同大学名誉教授、志學館大学教授、鹿児島県立図書館館長。専門は日本近世・近代史、薩摩藩の歴史。NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」「西郷(せご)どん」の時代考証を担当。著書に『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』(PHP新書)、『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)ほか多数。

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(志學館大学教授 原口 泉)

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