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たくさんの生きた人を見捨てて逃げた…被爆者・岡田恵美子さんが地獄のような光景を語り続けた理由

プレジデントオンライン / 2022年8月24日 18時15分

インドの大学で被爆体験の証言活動をする岡田恵美子さん(2005年) - 写真=筆者提供

広島・長崎に落とされた核兵器の被害とはどんなものだったのか。被爆体験証言者を取材してきたジャーナリストの宮崎園子さんは「被爆者の岡田恵美子さんは、生涯にわたって、当時の光景を語り続けていた。それは、同じような被害を絶対に繰り返してはいけない、という強い決意があったからだろう」という――。

※本稿は、宮崎園子『「個」のひろしま 被爆者岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)の一部を再編集したものです。

■世界に1万2000発以上…誰にとっても身近な核兵器

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の様子が、毎日毎日、手のひらのスマホに飛び込んでくる。長年、被爆体験証言者を取材してきた私は、これまで広島や長崎の人たちが訴えてきたことはなんだったのだろうか、と虚しくなる。

どういう状況であれ、核兵器は使ってはならないし、核兵器による威嚇は正当化されない。そのメッセージは届いていなかったのだろうか。それでも、私たちは言い続けなければならない。言い続けるだけではなく、具体的な行動によって、核兵器を否定し続けなければならない。

なぜなら、核兵器は今、世界中に1万2000発以上も存在しているからだ。それぞれ、広島や長崎に米軍が投下した原子爆弾の数千倍もの威力があるものだ。そういう世界に生きている以上、核兵器の問題は、広島・長崎のみならず、日本中の、そして世界中の誰もにとって、本来「我がこと」であるはずなのだ。

広島・長崎で起きた惨禍を、その体験者である被爆者たちだけのものではなく、それを許さないと考える私たちが、自分たち自身のものにしていかなければならない。本稿では、核兵器廃絶のために国内外で精力的に自身の被爆体験を伝える活動を行い、2021年4月、その会合中に椅子に座ったまま亡くなった岡田恵美子さんの証言を紹介する。

■突然ピカーッとあたりが光った

1945年8月6日、月曜日。よく晴れた暑い夏の朝だった。

恵美子は、母、弟二人とともに朝食を食べていた。すると、突然ピカーッとあたりが光った。尾長の家の南西約2.7キロの付近の上空で、午前8時15分に米軍が投下した原子爆弾が、炸裂した瞬間だった。

母が窓ガラスの破片を浴びて全身血を流しながら私たちの方に来たのを覚えてます。

自宅から避難する先は、私が(疎開前に)行ってた尾長国民学校と、父が働いていた学校なんだけど、もう校舎がウワーッと覆いかぶさってきてね。本当に狂ったように。立派な建物じゃない、昔の木造ですからね。校舎は火に包まれて、一気に火が狂ったように追いかけてきた。その下で吹き飛ばされた瓦礫やら、崩れたものでみんな、バタバタバタバタつまずいたままね、火が追いかけてくる中でたくさんの人が亡くなっている。私はそれを置いて山手の方に逃げてるからね。

それから強い風も来て、後から調べたら風向きが変わったとはいうんだけど、その下でたくさんの生きた人をね、私は本当に置いて逃げて、どうしてあげることもできんかったからね。

幼い頃の岡田美恵子さん
写真左/岡田(旧姓・中迫)美恵子さんの家族写真。前列左から2人目、海軍風の装いをしているのが美恵子さん。写真右/8月6日、学校に行ったきり、帰ってくることはなかった姉の中迫美重子さん

■ただただ火が追いかけてくる

のちに取材を受けたりする際、何時ごろになにを、といった説明を求められることが増えたが、何時に火災になった、など、具体的な時間の記憶はない。ただただ、火が追いかけてくる中、たくさんの生きた人を見捨てて逃げた、ということは忘れることはできなかった。

父は中学生を引率して段原(だんばら)で作業をしていたところじゃった。比治山のおかげで亡くなった生徒はほとんどいないんですよ。段原の民家からいろいろ浴衣とかシーツとか引っ張り出して負傷者を介護する方に回ったんですよね。だから三日ぐらい後に帰って来たんですよ。ケガはみんなしてたんですがね。

■被爆者の目撃した光景を高校生が描くプロジェクト

宮崎園子『「個」のひろしま 被爆者岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)
宮崎園子『「個」のひろしま 被爆者岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)

今や、誰もがスマホですぐに写真を撮れる時代だが、当時はカメラすら珍しい時代。そのときの様子は、一部の従軍カメラマンや米軍関係者らによって写真として残されているが、きのこ雲の下でなにが起きていたのかを視覚的に示す資料は、当然のことながらほとんどない。

そうした中、原爆資料館は、広島市立基町(もとまち)高校普通科創造表現コースの生徒の協力のもと、被爆者が目撃した光景を、聞き取りをしながら引き出して絵にするという「高校生が描く原爆の絵プロジェクト」に取り組んできた。被爆者が証言の際に、資料として使うことで、聞く人たちの理解が進むことにつながるほか、被爆者と高校生との交流を生み、被爆体験の継承にも貢献してきている取り組みだ。

恵美子もそのプロジェクトに協力し、多くの高校生たちが、恵美子の脳裏に焼き付いた光景を、絵筆で再現してきた。

基町高校の子が、私の経験を絵に描いてくれることになったんですよ。狂ったように火が追いかけてくるとか、鬼のように火災が発生したって言っても、十五歳の子にはそんな家が燃え盛ってるようなのを見た経験がないから、なかなか理解できない。一年ほどかけて、何回も何回も描き直してくれました。

■死体を見たことがない子にいかに伝えるか

ゲートル、もんぺといった言葉すらピンとこない世代。一緒に資料館に行って説明をしたり、参考になる資料を見てもらったりして、なんとか時代の空気を知ってもらおうとした。

言葉だけでは原爆のことを表現するのにイメージが全然湧かないんですよね。死体を見たことないんだからね。身内の人でお葬式した時なんかはちゃんとお棺の中に入ったものは見たことあるよっていうような、そういう感覚ですからね。

だから黒焦げでやけどした、物体と同じように転がされてたって言っても死体がイメージできないんですよ。だから何度も何度も、表面だけのやけどじゃない、もう本当に赤黒くススもホコリも血も全身出てるいうような話をして。もっとすごい、もっと強烈なって言っても血の色すら最初はピンクで描いてたり。優しいんですよ、生徒さん。そんなんじゃなくて、もう赤黒くって真っ黒に近い赤だったって言って何度も何度も塗り替えてもらって。

そのときに、「助けて」って言った子どものあの目が忘れられんって言ったんですが。最初に描いたのは可愛いイラストのような目でね。そんなんじゃないよ、もうすがりつくように助けてって言ったときのあの目っていうのはほんとに忘れることができんって言ったら、先生もサポートしてくださって迫力というか哀願するような目にしてくださって。あの当時を思い出すような目になってたからね。

何度もお礼言ったんですけどね。現物は市に寄付されているけど、レプリカをもらってます。証言活動のときのスライドにも入れてますしね。言葉だけじゃあイメージがわかないから。

■人間は、本当に突然なにが起こるかわからない

絵を描く高校生にとっても困難な作業だが、脳裏に焼き付いた光景を思い出しながら言語化をする作業も、被爆者にとっては辛いものだ。しかし、恵美子は数年間、このプロジェクトに協力し続けた。

人間、本当に突然なにが起きるかわからない。ぎりぎりのところだったんです。風向きが変わって火がストップしたいうんだけど。そうでなければ火に巻かれていたかもしれん。周辺部の生きてる者はゾロゾロゾロゾロみんな東練兵場っていう、軍の訓練場所へ避難した。

広島駅の北側一帯に広がっていた陸軍の演習場、東練兵場は死体だらけだった。

みんなやけどして。火災がズズズッて発生してくるから、避難するいったらもうそっちしかなかったんですよね。そういう中でもちっちゃい子どもでね、迷い子がいました。「おかあちゃん、おかあちゃん、おかあちゃん」ていうのが耳に残ってる。国民学校とかはみんな縁故疎開とか集団疎開とかで疎開したから、本当に私らぐらい。近所では数人ぐらいが、原爆に遭ってるんだけど。

みんな上へ上へ高いところに向かって避難して。あのときにもう何百何千わからんけどね、死んだ人、置いて逃げたり、見てもどうすることもできんかった人。それでもお寺さん、お宮さんは供養してくれてると私は信じとるわけ。身元がわからん人やらね、みんな家に帰れん人ばっかりだったと思う。軍隊の人なんかは大半軍服着てたりなんか残ってるけどね、一般の人やら子どもはほんとにね、なにも残ってない。お寺さんとかお宮さんには、ありがとうございますじゃないけど、私ら個人はなにもできんかったけぇね。浮かばれないよね、みんな逃げて逃げて、バタバタね。

■歯茎から出血し、髪が抜ける「ピカドン病」

私の家族では姉なんだけど、親戚でいったら五人ぐらい亡くなってる。父の妹だったりね。その日は女学院に行って仕事するいうんだったんですけど、わかってるのは、女学院の方から泉邸(せんてい)(現在の縮景園)へ避難した、いうこと。友達が一緒だったけど、泉邸から別れ別れになって、橋を渡るときにもう行方不明になったいうこと。そこから先はわからん。泉邸からどっち向いて避難したのかもわからんしね。それとか的場の今の電停のまん前に叔母の家族が生活しててね。三遺体は地下でポッコリ遺骨が残ってたのが見つかったから、ここで死んだんじゃねというのがわかるんだけど。そういう風にそこで亡くなった遺骨があるものはわかるけどね。うちの姉みたいに集合した後はわからん、じゃあね。

私自身も、歯茎から出血して、髪が抜けて。もう死体と一緒に私、「たいぎい(しんどい)、たいぎい」って横になっとった。ピカドン病じゃ言われました。まだ放射線じゃいうのはわかっとらんかったから。

大人になって放射線の勉強してね。広島・長崎の者は放射線浴びとったいうの大人になってわかったんですよね。再生不良性貧血いう病名がついたんですが、それも血小板が破壊されてしまったからだったんですよ。亡くなった人も犠牲者だけど、生き残った者もみんな体内に放射線が入ってるから私みたいにけだるかったり嘔吐したりね。発熱したり。本当にそれは長年苦しみましたよ。

■被爆者は苦しみを語ることすら許されなかった

しかし被爆者たちは、苦しみや悲しみを吐き出すことすら禁じられた。敗戦後、連合国軍占領下の日本では、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示によって言論統制(プレスコード)が敷かれたためだ。

被爆者は話すことができなかったですよね。自分のことを人に話してもいけないし、生き残った者もみんな同じような、私ひとりじゃないですからね。被爆していることが普通なんですよね。で、外傷でやけどした人はみんなが原爆とすぐわかりますけど、私らみたいに外傷がない者は、被爆者っていうのがわからないんですよね。だからぶらぶら病とか横着病とかそういう感じでしたね。とにかく起きられないというかね。毎日毎日続いたから。外傷の人は、見たらすぐやけどとかその後ケロイドとかで、今度は表へ出られないしね。人の目が怖い、差別を受けたりいうことがあったけど。

私は脚の付け根におできができて。今でも薄く残ってる。斑点が出たんですよ。おできが膿んでそれがだんだん広がってきて、おっきいきっぽ(傷跡)になってたんですよね。直径が五センチぐらいかな。もちろんお薬もないし、なかなか治らなかったですね。

ノーベル平和賞の授賞式に被爆体験者として出席した岡田さん
写真=筆者提供
ノーベル平和賞の授賞式に招かれ、ノルウェー・オスロを訪れた岡田さん。左は被爆者の築城昭平さん(2015年) - 写真=筆者提供

■夕焼けが嫌い

やっぱり子どもだったから、死ぬとか怖いとかいうよりは、とにかく食べ物がないことが一番でしたけど。本当にお腹がすくほうが。それとシラミとかノミっていうのわかります? 女の子は髪が長いから特にね。ノミなんか跳ぶんですよ。真っ白にDDT(殺虫剤)を頭からかけてね。入浴もできないし、着替えするものもないんだからね。着たきり不衛生。それがみんなだから。

こうして日常生活する中で、年に何回かもう真っ赤に染まる夕焼けがあるよね。

人の顔も赤く染まるぐらいの夕焼け。あの夕焼けを見たらね、広島の八月六日の夜のこと、思い出す。夕焼けが嫌いなんですよ。本当に私にとったらもう真っ赤だったから。三日三晩、広島は燃え続けたからね。あのときのことはもう思い出したくない。八月六日に私は助けてあげるどころじゃなくて、瓦礫でつまずいたまま死んでいくたくさんの人を置いて逃げたんよ。

私のもんぺに小さい女の子が、しがみつくように「助けて、助けて」ってね、あの目がね。私は助けてあげるどころじゃなくて本当にあの、もう哀願っていうんかね。瓦礫につまずいて、「助けて」って私のもんぺを捕まえたときのあの目が忘れられない。私それを置いて逃げたんだから。

岡田さんの証言を基に高校生の岡島愛さんが描いた「炎の中で助けを求める女の子」
広島平和記念資料館(所蔵)
岡田さんの証言を基に高校生の岡島愛さんが描いた「炎の中で助けを求める女の子」 - 広島平和記念資料館(所蔵)

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宮崎 園子(みやざき・そのこ)
ジャーナリスト
1977年、広島県生まれ。慶應義塾大法学部卒業後、金融機関勤務を経て2002年朝日新聞社入社。神戸総局、大阪本社社会部・生活文化部、広島総局などで勤務後、2021年7月退社。現在、広島を拠点に、取材・執筆活動を続けている。著書に『「個」のひろしま 被爆者岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)がある。

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(ジャーナリスト 宮崎 園子)

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