人をあざむくために72の方法を体得した…史実から分かった明智光秀の性悪すぎる人物像
プレジデントオンライン / 2023年1月16日 9時15分
※本稿は、山本博文(監修)、造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■織田信長を殺害した光秀の光と影
“謀反人”の代名詞とも呼べる明智光秀。2020(令和2)年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公であったことからも注目された歴史上の人物だ。
光秀が主君である織田信長を殺したことは誰もが知っているが、その人物像の解釈はさまざまだ。
江戸時代から現代までに創作された物語では、みずからの野望のために信長を殺した大悪人、信長の横暴に堪えかねてやむなく謀反におよんだ悲劇の武将、信長の持つ革新性との対比から、幕府や朝廷といった既存の権力・支配体制の守護者として描かれてきた。
しかし、人間の顔はひとつとは限らない。光秀にも光と闇、双方の側面がある。
通説によれば、光秀が最初に仕えたのは美濃(現在の岐阜県南部)の守護・土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三であり、道三が嫡男・義龍に倒されたのちに光秀は美濃を出奔し、越前(現在の福井県東部)の大名・朝倉義景の下で10年にわたって仕えたとされている。
だが、この通説は江戸時代中期に成立した『明智軍記』など後世の軍記物が元となっており、信憑性が高いとはいえない。
光秀の名が初めて登場する一次史料は肥後(現在の熊本県)の細川家に伝わる『米田家文書』であり、その中の『針薬方』に「明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」との記述がある。
これは十兵衛こと光秀が、近江(現在の滋賀県)高島郡の田中城に籠城していたことを意味する。田中城の城主である田中氏は近江守護・六角氏の家臣であり、当時の六角氏は浅井氏と抗争をくり広げていた。
■使い走りに過ぎない「賤しき歩卒」から立身出世
ただし、光秀は六角氏の家臣だったわけではない。『群書類従』に収められている『永禄六年諸役人附』は足利将軍家家臣の名簿ともいうべき史料で、そこには「明智」という足軽の名が記されている。
つまり光秀は、室町幕府十三代将軍の義輝が暗殺される前後には足利家に仕えていたことになる。ルイス・フロイスの『日本史』には光秀を「賤しき歩卒」とする記述があり、低い身分から立身出世をスタートさせたことは事実であろう。
義輝の暗殺後、弟の義昭はまず若狭(現在の福井県西部)の守護・武田義統を頼り、その後は越前の朝倉義景を頼った。
ところが義景は上洛に消極的であり、義昭は信長に協力を要請する。このときの交渉役を務めたのが、当時、足利将軍の家臣だった細川藤孝で、光秀はその部下であった。
信長から藤孝に送られた1568(永禄11)年の書状には、「詳細は明智に申し含めました。義昭殿によろしくお伝えください」と記されており、光秀は両者の伝達役を務めていたとみられる。
いわば使い走りに過ぎない光秀が14年後に信長を討つとは、当時の誰が想像できたであろうか。
■光秀の配下に組み込まれた500人の鉄砲隊
間もなく信長は上洛し、義昭を十五代将軍の座に就けることに成功する。当時の光秀は足利と織田、両属の家臣という立場であった。
その職務は行政や軍務、外交など多岐にわたり、1569(永禄12)年には村井貞勝や丹羽長秀とともに京都の奉行職に任じられ、さまざまな文書の発給を行なっている。
また、1570(元亀元)年の朝倉攻めでは、義弟・浅井長政の裏切りにより金ヶ崎に孤立した信長を救う働きを見せている。いわゆる「金ヶ崎の退き口」だ。
殿を務めた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の活躍が広く知られているが、光秀と池田勝正も秀吉とともに殿を務めており、『当代記』によれば、光秀の配下には500人ほどの鉄砲隊が組み込まれていたという。
寛永年間成立の『当代記』は江戸時代中期に成立した『明智軍記』よりも信憑性が高く、この記述が事実であれば、光秀の鉄砲隊が活躍したことは想像に難くない。
話は脱線するが、光秀は三好軍が義昭の仮の御所を襲撃した本圀寺の変で「大筒の妙術」を駆使したという。ここでいう大筒とは、通常よりも大きなサイズの鉄砲のことだ。
信長が本格的に鉄砲隊を導入するのは1575(天正3)年の長篠の戦いであり、光秀は鉄砲の戦場での活用に関する何かしらの示唆を信長に与えていた可能性がある。
■「比叡山の焼き討ち」は本当だったのか
さらにつけ加えるならば、光秀は築城の名手でもあり、1571(元亀2)年に築城の近江の坂本城は、信長の安土城に先駆けて天主(天守)を備えていたという。
これらは光秀が信長同様の革新性を備えていたことの証しであり、2人は似たもの同士であったということができるのである。
話を戻そう。織田軍の侵攻をはね除けた朝倉・浅井連合軍は1570年の姉川の戦いで敗北し、その後は比叡山延暦寺と組んで信長に対抗した。
信長は比叡山に対し、朝倉・浅井の兵を匿うことを辞めるよう要求したが受け入れられず、悪名高き「比叡山の焼き討ち」を断行する。
通説では、光秀はこの焼き討ちに反対したとされている。その根拠は『天台座主記』の「光秀縷々諫を上りて云う」(光秀は信長を諫めていた)という記述だが、この書物は後世の編纂であり、一次史料はまったく異なる光秀の言動を伝えている。
当時の光秀は比叡山周辺の国衆への調略を行なっており、比叡山の北にある雄琴城の城主・和田秀純に宛てた書状には「仰木の事は是非ともなてきりに仕るべく候。やがて本意たるべく候」(仰木は必ず撫で斬りにしなければならない。いずれそうなるであろう)という記述がある。
仰木は延暦寺の支援者の多い土地であり、光秀は焼き討ちに反対するどころか、むしろ積極的に荷担していたのである。
この焼き討ちに動員された織田軍兵士は、一説に12万。対する延暦寺の戦力は4000とされている。
『信長公記』は「根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い(中略)僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」と、文字通りの大虐殺が行なわれたことを伝えている。
■「惟任日向守」に込められた、信長の期待
光秀は焼き討ちの功で信長から近江の滋賀郡を拝領し、延暦寺の寺領を管理することとなった。管理とはいっても、やっていたことは横領である。
加えて光秀は、京都の奉行としての振る舞いにも横暴さが見えるようになり、京都の治安維持の責任者である将軍・義昭と間で軋轢を生んだ。義昭は1573(元亀4)年、信長により将軍の座から追われ、光秀は晴れて織田家専属の家臣となるのである。
従来の光秀の家臣団は、明智秀満ら一族衆、斎藤利三ら譜代衆、和田秀純ら西近江衆を中心に構成されていたが、義昭の京都追放を機に幕臣や山城(現在の京都府南部)の国衆も配下に加わった。
増強された軍事力を背景に、光秀は1575(天正3)年より丹波(現在の京都府中部、兵庫県北東部)の平定に着手する。義昭と信長が昵懇だったころは丹波の国衆たちも信長に従っていたが、両者の決裂にともなって丹波はふたたび乱れていたのである。
信長は出兵を控えた光秀に「惟任」の姓と「日向守」の官職を与え、以降、光秀は「惟任日向守光秀」を名乗るようになる。
丹波の支配者として箔を付けるためとも考えられるが、惟任氏は豊後(現在の大分県)の有力氏族・大神氏の末裔であり、信長はその後の九州進出も見据えて、光秀に九州ゆかりの姓と官職を名乗らせた可能性がある。
いずれにせよ、光秀が信長から多大な期待を寄せられていたことは間違いない。
光秀の丹波攻めは有力豪族の荻野氏や赤井氏の抵抗、あるいは波多野氏の裏切りなどで大いに難航し、一度は中断される。しかし光秀はその後も粘り強く戦い、1580(天正8)年に丹波を平定。その領有を信長から認められた。
■「嘘泣きをしてでも、信長の同情を引いた」
光秀の家臣団には丹波衆も加わり、さらに丹後(現在の京都府北部)の細川藤孝・忠興親子、大和(現在の奈良県)の筒井順慶、近江の織田信澄らを与力とした。
光秀は畿内に睨みを利かせる存在となり、後世の研究者は当時の光秀を「近畿管領」と表現している。
信長は佐久間信盛を追放する際の折檻状でも光秀を「丹波の国での働きは天下の面目を施した」と褒め、当時の光秀は織田家の事実上のナンバー2であったといえるだろう。
では、光秀自身は信長をどう見ていたのか。光秀は家臣団をまとめるために『家中軍法』と『家中法度』を制定しているが、『家中軍法』では落ちぶれた身を拾ってもらったことへの感謝や、今後も信長に尽くす旨が記されている。
また『家中法度』では「信長様の宿老や側近と道で出会ったときは、片膝を突いて挨拶するように」と、かなりへりくだった対応を家臣に求めており、媚びへつらっているようにも感じられる。
フロイスの『日本史』にも同じような指摘がある。
光秀は「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」ており、「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃してみずからがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」という。
加えてフロイスは「(光秀は)人を欺くために72の方法を体得していた」「裏切りや密会を好む」とも書き記しており、かなり悪辣な人物だったことがうかがえる。
そんな光秀に、同僚武将たちは心から気を許してはいなかった。のちに起こる本能寺の変で信長を殺した光秀は、あてにしていた細川親子や筒井順慶の同心を得ることができず、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、あえない最期を遂げた。才覚は秀でていても、人望はなかったのであろう。
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歴史学者
1957年、岡山県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。文学博士。東京大学史料編纂所教授などを勤めた。1992年『江戸お留守居役の日記』で第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。著書に『日本史の一級史料』(光文社新書)、『歴史をつかむ技法』(新潮新書)、『流れをつかむ日本史』『武士の人事』(角川新書)など多数。共著に『人事の日本史』(朝日新書)。NHK Eテレ「知恵泉」を始め、テレビやラジオにも数多く出演した。2020年逝去。
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1985年設立の企画・編集会社。歴史や文化に造詣が深く、編著となる単行本は年間約30冊にのぼる。おもな編集・制作物に『この一冊で世界の「四大宗教」がわかる!』(三笠書房)、『学校で教えない 日本史人物ホントの評価』(実業之日本社)、『東大教授が教える! 超訳 戦乱図鑑』(かんき出版)など。
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(歴史学者 山本 博文、造事務所)
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