だから家康は天下人になれた…小牧・長久手の戦いで秀吉を討ち取る絶好のチャンスをあえて見逃したワケ
プレジデントオンライン / 2023年8月13日 12時15分
※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■小牧・長久手の初戦・羽黒陣で秀吉軍が負けたワケ
1584(天正12)年3月、事態は急に動き始めます。
徳川家康は尾張へと進み、清州城で織田信長の次男信雄(のぶかつ)と合流し、軍議を練り、小牧山城に進んで堀を深くするなどの修復を施して本陣とし、尾張羽黒(はぐろ)に陣を進めてきた秀吉方の池田恒興(つねおき)、その娘婿の森長可(ながよし)らの部隊と激突します。「羽黒の陣」と呼ばれるこの戦いでは、家康方の先鋒である酒井忠次、奥平信昌らが迎え撃ち、秀吉方を打ち負かしました。
この時期、羽柴(のち豊臣)秀吉本人は、まだ大坂にいて、「自分が着陣するまでは手出しは無用」と厳命していましたが、なにぶんにも秀吉軍は混成部隊であり、秀吉と恒興の関係も、上下関係ではなく、いわば元同僚のようなもの。恒興は、たとえ秀吉の軍令を無視しても、「なに、攻め取れば、秀吉とて、よもや怒ることもないだろう」と高を括ってもいたのでしょう。
■秀吉軍内部に起きた変化
羽黒での敗戦の報を耳にした秀吉は、家康本陣=小牧山とは2キロ余りしか離れていない、楽田(がくでん)に陣を張ります。
すぐさま家康側の野戦陣地を偵察に出た秀吉は、一望して、家康の野戦陣地が、信長がかつて武田の騎馬軍団に対抗するために考案した、陣形そのままであることに気がついたことでしょう。
「あの人真似め――」
秀吉は舌打ちしたかもしれません。
ならば、と家康の小牧山陣地に対抗して、秀吉は直ちに要所を連環するように砦を築き、空前の大野戦陣形を構築しました。
先に仕掛けたほうが負ける、と互いににらみ合ったままの秀吉と家康でしたが、そうするうちにも、一方の秀吉陣営では小さな波風が立ち始めます。
秀吉陣営は10万(一説には6万とも)の大軍を擁しているのに対し、家康・信雄軍はせいぜい1万6000から7000です。圧倒的な兵力差がありながら、なぜ、家康側をひねりつぶさないのか、という不平・不満が、秀吉陣営の諸将から次第に強く出てきたのは、当然の成り行きであったでしょう。
とりわけ焦っていたのは、先の「羽黒の陣」で秀吉の厳命を破り、独断専行して一敗地にまみれた池田恒興でした。
■池田恒興が提案した「中入り」とは
恒興は、自分の名誉挽回に血眼となり、娘婿の長可、息子の元助(もとすけ)と相談し、全体の戦局もわきまえずに、突飛きわまる作戦を立案し、秀吉に進言しました。
自身を総大将とする別働隊を編成し、密かに陣地を抜け出て戦場を大きく迂回し、敵将・家康の本拠地である三河岡崎城を攻めると言い出したのです。
家康が動揺して兵を返せば、秀吉の主力軍がこれを追撃するという作戦でした。
「これは、“中入り”そのものではないか」
中入りとは、敵の最前線を避け、迂回して後方の手薄な部分を奇襲して破り、敵の全軍を壊滅に導く戦法のことです。
かつて上杉謙信や織田信長が、この戦法をたびたび用いて、華々しい戦果を挙げたことから、この時期、武将の間では、ずいぶんもてはやされたといいます。
しかし、この戦法はよほど勘のいい戦闘指導者と、実戦を熟知する将兵に恵まれて、しかも、敵将が凡庸であってはじめて、可能となる難しい戦法でした。
秀吉は反対しますが、恒興は自分の提案に執着し、執拗に食い下がります。
総大将の秀吉は不覚にも根負けしてしまい、折れて恒興の策を採用してしまいました。
■家康の用意周到な作戦
家康・信雄連合軍を上回る恒興、長可、元助、堀秀政、秀吉の甥・羽柴(のち豊臣)秀次ら秀吉軍別動隊2万が、4月6日の夜半、楽田の陣地を後にしたのです。
しかし、家康が放っていた忍びは、この巨大な一軍を見逃しませんでした。8日早朝、家康はまず先発隊4500を、秀吉別働隊の進路途中にある小幡城に入れ、自身は信雄を語らって小牧山本陣を空同然にし、密かに出撃。小幡に入城して、待ち伏せの態勢を取りました。
やがてそこに、秀吉軍別働隊が進軍してきます。翌4月9日早朝、秀吉軍別働隊は急追してきた家康軍先発隊に、背後から攻撃を受けました。
前方を進軍していた恒興、長可の部隊が取って返して、徳川軍先発隊をいったんは撃退しますが、家康が率いる本隊に攻め立てられ、挟み撃ちされる形で総崩れとなり、恒興―元助父子、長可は討死、辛くも立て直した堀秀政は、秀次の軍を庇(かば)いつつ戦線を離脱するのがやっとのありさまでした。
■なぜ秀吉は一気に総攻撃に踏み切らなかったのか
秀吉が、別働隊壊滅の報を聞いたのは、その日の昼頃です。
急遽、家康・信雄連合軍を捕捉・殲滅(せんめつ)すべく全軍を投入。自ら2万の兵を率いて出撃しますが、日暮れになったので、小幡の城攻めは明朝と決め、やむなく龍泉寺川原に夜陣を張りました。
家康は夕刻、小幡城に入り、ここで敵の動向を見極め、攻め寄せてくればこの城で防戦しようと考えていましたが、間諜より秀吉軍が総力を挙げて進軍中と伝えられ、この城では防ぎきれないと判断して、夜半になって急ぎ小牧山に帰陣しました。
一方の秀吉は、翌朝に出した斥侯(せっこう)が、家康は早くも夜のうちに、小牧山へ兵を引き上げたと報告すると、兵を楽田に戻し、帰陣してから諸将に向かい、上機嫌でこう述べたといいます。
「長久手で家康の働きぶりを見たが、敵にしても味方にしても、あれほどの名将は、これから先も日本には出てこないだろう。このたびは勝利を失ったが、海道一の家康を、将来、長袴で上洛させることにしよう。その秘策は(すでに)この胸中にある」
おそらくはハッタリ、家康を逃した言い訳、演出であったかと、思われます。
常識的な感覚からすれば、大軍を擁する秀吉が、小幡を経由せずに、一気に小牧山へ殺到してもおかしくはなかったはずです。なぜ、彼はそうしなかったのか――。
■怒りでは何も解決しない
秀吉が総攻撃に踏み切れば、一時的な勝利は得られるかもしれません。
しかし、決定的な段階を迎えるまでには、なお、さらなる歳月が必要となります。
天下にはまだ、群雄が割拠していました。秀吉と家康の対決は、漁夫の利を狙う他の大名たちの決起を促し、気づいた時には秀吉が獲得した、輝かしい“勢い”が、いつの間にか消滅していた、ということにもなりかねない状況でもあったのです。
己れの感情や体面を押し殺すのは、とても難しいことです。地位や名誉があればあるほど、なおさらです。
しかし、苦労を重ねながらここまではい上がってきた秀吉には、一時の激情がどれほどやっかいな連鎖反応を示すものなのか、身に沁みてわかっていたはずです(もちろん、学習してきた家康も同様です)。
秀吉が敗戦の屈辱から、兵力を駆使することなく立ち直るには、相手の家康をほめたたえ、己れをそれに勝る「大気者(たいきもの)」とみせるよりほかに、術(すべ)がなかったのでしょう。
■家康がチャンスをいかさなかったワケ
家康はのちに、この長久手の一戦の後、秀吉軍が龍泉寺川原に夜陣を張ったことを知りながら、速やかに小牧山まで兵を退いた決断について、重臣たちにこう言ったといいます。
「あの時、夜討ちをかければ必ず勝つとは思っていた。しかし、たとえ勝ったとしても、万が一にも秀吉を討ち漏らすようなことがあっては、大変なことになる。
なぜなら、秀吉は天下統一の大功をたてようと望んでいる人だからだ。秀吉軍は10万の兵、こちらは信雄と合わせても2万にもならない。この劣勢をもって、大軍と戦うだけでも武人の名誉である。しかも昼の一戦に勝ったとあっては、これだけでもう十分だろう。私はこの一戦を仕掛けた目的は、達成したと思ったのだ。
さらに夜襲に勝って、しかも秀吉を討ち漏らしでもしようものなら、秀吉は負けたことを憤り、天下を取ることよりも、まず徳川を潰すことが先決だ、と考えよう。そうなれば、互いに無益なことだ、と思いいたったわけだ。〈後略〉」(『名将言行録』意訳)
家康は秀吉の天下統一の志に、敬意を持つと同時に、この一戦で自らの存在を、秀吉や天下に広く印象づけるとの目的は達せられた、と考えていたのでした。
■圧倒された秀吉のスピード感
家康と合戦で決着をつけることをあきらめた秀吉は、矛先を織田信雄に定め、信雄の領地のうち、半分にあたる伊勢、伊賀を奪い、信雄に戦意を喪失させました。信雄はそもそも自分が家康に支援を求め、家康と同盟を結んで立ち向かった戦であったことも忘れたかのように、家康に一言の相談もせず、単独で秀吉と和議を結びます。
そのため、同盟者であった信長の子を助けるとの大義名分を失った家康も、秀吉に第二子・義伊(ぎい)(のちの結城秀康(ゆうきひでやす))を養子に差し出して、講和を結びました。
秀吉は家康との講和を済ませると、これまでさんざん苦しめられてきた紀州の根来・雑賀党を押しつぶし、かつて信長が比叡山延暦寺を相手にした時と同様に迫り、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の武装を解除させ、海を渡って四国をまたたく間に平定します。
秀吉の「勢い」は衰えるどころか、小牧・長久手の敗戦という事実をも葬り去った感がありました。
一方家康は、確かに小牧・長久手の戦いには部分的に勝利しましたが、天下統一という政治的・外交的な大きな枠組みの中では、明らかに秀吉に及ばなかったのです。
しかし、家康はこの一戦で多くのものを失いながら、同時にそれに倍加する得難い教訓を多数学んだことは間違いなかったかと思います。
■「私一人が腹を切れば、みなを助けることができる」
小牧・長久手の戦いで和睦を結んだあとも、秀吉は家康に対して、さまざまな形で、臣下の礼を取るように、と働きかけてきました。
家康は拒みつづけますが、1586(天正14)年、秀吉は実の妹・旭(あさひ)姫(朝日姫とも)を家康の正室として差し出すと公表。家康はこれを受け入れ、5月14日に浜松で祝言が行われます。
さらに、この年の10月、秀吉は妹・旭姫の見舞いとして、生母の大政所(おおまんどころ)を家康の許に送る、との書状を出しました。
ここまでされては、いかに用心深い家康も、臣従の挨拶に出向かないわけにはいきません。家康は上洛を決意しますが、この時、酒井忠次以下、主だった家臣たちはなおも、家康の上洛に反対しました。
すると家康は、
「私が上洛しなければ、秀吉との仲は必ず断絶する。そうなれば、秀吉は全力で攻め寄せてくるだろう。皆が善戦したとしても、家臣にも領民にも大きな犠牲が出ることは必定だ。
しかし私一人が(最悪)腹を切れば、みなの生命(いのち)を助けることができる。それが私の役目だ」と言って、家臣たちを納得させたといいます(『名将言行録』意訳)。
この年の10月24日に上洛した家康は、27日に大坂城で秀吉に拝謁しています。ようやく家康を取りこめた秀吉は、12月、太政大臣となり、「豊臣」の姓を後陽成(ごようぜい)天皇(第107代)より拝領(前年9月説もある)。関東・奥羽の諸大名に、戦闘行為の停止=惣無事令(そうぶじれい)を出しました。
その行為はまさに、天下人としてのものであった、といえるでしょう。
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歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。
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(歴史家、作家 加来 耕三)
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