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NHK大河ドラマは根本的に間違っている…「征夷大将軍の任命=江戸幕府誕生」とは言えないこれだけの理由

プレジデントオンライン / 2023年11月19日 13時15分

狩野探幽画「徳川家康像」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いたとされる。歴史評論家の香原斗志さんは「征夷大将軍になっても秀頼と豊臣家を頂点とする政権は残っていた。『征夷大将軍の任命=江戸幕府誕生』とは言えない」という――。

関ヶ原に戦勝しても秀頼の臣下だった家康

「徳川幕府誕生」。NHK大河ドラマ『どうする家康』(11月19日放送)の第44回のタイトルである。第43回「関ケ原の戦い」(11月12日放送)で、石田三成(中村七之助)率いる西軍を、徳川家康(松本潤)率いる東軍が撃破。それは慶長5年(1600)9月15日のことで、同8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任じられている。

歴史の授業では、これをもって「幕府誕生」と教わったことと思う。だが、結論を先にいえば、たしかに「将軍」は誕生したけれど、それをもって「幕府」なるものが誕生したとは、まだいえない状況だった。

関ヶ原の戦いで家康側が圧勝したのはまちがいない。だが、それで全国が家康になびくほど、事は簡単には進まなかったのである。

家康は勝利ののち、9月27日に淀殿と豊臣秀頼に戦勝報告をしたが、あくまでも主君たる秀頼への、臣下たる家康からの報告だった。10月に大坂城中で、一時は家康らを反乱軍扱いした淀殿および秀頼と、和睦のための盃が交わされたが、このときも淀殿が飲み干した盃が家康に回り、上座に座っていたのは淀殿と秀頼だった。

また、家康は戦勝後、諸大名の加増や減封、改易、転封などをすべて仕切った。当時の日本の総石高は1850万石ほどといわれるが、そのうち416万石余りを没収し、有力5大名を減封して208万石余りを奪い、さらに豊臣蔵入地(各地に点在した豊臣家の直轄領)を削減して、およそ780万石を再分割した。

いわば国家の再編成に近いほど、空前絶後の領地の再配分を家康が行ったのだが、その際には必須であるはずの領地宛行の判物や朱印状を、家康はまったく発給していない。この判物や朱印状こそが封建的主従関係の基本になるのに、家康による領地の再配分は、口約束だけで行われた。この時点では家康は豊臣家の家臣にすぎず、それを発給するとすれば秀頼の名で出すしかない。だから出せなかったのである。

早くから将軍になることを意識していた家康

むろん、家康は自分が「天下人」になるための準備を着々と進める。いうまでもなく、家康がねらったのは将軍の座である。ドラマでは、本多正信(松山ケンイチ)が家康に「いかがでございましょう、いっそ将軍になるというのは?」を提案し、家康は「徳川は武家の棟梁。豊臣はあくまでも公家。住み分けられるかもしれんな」と答えるようだ。しかし、家康は正信にいわれるまでもなく、将軍になることを早くから意識していた。

福田千鶴氏によれば、慶長6年(1601)5月の時点では、松前盛広の書状に「御位日本将軍に御成可被成由ニ候(将軍の地位にお就きになろうとされているようだ)」と記されており、関ヶ原の戦いの数カ月後には、家康が将軍になるという噂があったことがわかる(『豊臣秀頼』吉川弘文館)。

家康がそのためにまず企てたのは、源氏への改姓だった。豊臣政権下では家康も嫡男の秀忠も、秀吉からあたえられた羽柴名字と豊臣姓を、いわばしぶしぶ使っていたが、関ヶ原戦勝後は使用をやめた。慶長7年(1602)2月20日の近衛前久の書状により、それ以前には家康が、豊臣姓から以前も使用していた源姓に改姓していたことがわかる。しかも前久は、改姓が将軍の座を望むからだとまで記している(黒田基樹『徳川家康の最新研究』朝日新書)。

その前年の慶長6年(1601)3月28日、秀忠が朝廷から従二位権大納言に叙任されたとき、すでに源姓になっていた。ということは、家康はそれ以前に源姓に戻していたと考えられる。

源姓でなければ征夷大将軍になれない、と定められていたわけではないにせよ、源頼朝以来、室町幕府の足利将軍にいたるまで源氏だった。したがって、前例に従うなら征夷大将軍になるには源姓であるほうがいい、と考えたのである。

なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか

ところで、秀吉はなぜ征夷大将軍に就任しなかったのか。

織田信長は本能寺の変の直前に朝廷から、征夷大将軍、関白、太政大臣うち好きな職に就かせると打診されていたが、生きていたらなにを選んだのか永遠の謎である。一方、秀吉は将軍職を望んでいたという見方もあるが、その道を選ばなかった理由としては、次のようなことがいわれてきた。

ひとつは、征夷大将軍は東夷(粗野な東国の武士をあざけって呼ぶ言葉)を制する武人にあたえられるものだが、天正13年(1585)の時点では、秀吉はまだ東国を制覇できていなかったから、というもの。また、信長によって追放された足利義昭の猶子になろうとしたが断られた、という話もあるが、同時代の一次資料には出てこないので、真偽のほどはわからない。

まちがいないのは、朝廷内で関白の地位をめざして二条昭実と近衛信輔による争い、いわゆる「関白相論」があったため、秀吉はいわば漁夫の利を得るように関白の座に就くことができた、ということだ。秀吉にとっては、天下を治める大義名分が得られれば、どの地位でもよかったのではないだろうか。

一方、家康には征夷大将軍に就かなければならない理由があった。

征夷大将軍という職には伝統的に、武家に対する軍事指揮権がある。家康は関ヶ原の戦い後、前述のように領地宛行の判物や朱印状を発給できなかった。しかも、先に記した領地の没収高780万石の過半数にあたる425万石を、主に関ヶ原で東軍の勝利に貢献した豊臣系の諸大名にあてがうほかなかった。だが、征夷大将軍になれば、いまはまだ秀頼の臣下のままでいる大名たちも、自分の指揮下に置くことができる。だから、どうしても将軍に任官したかったのである。

世間がみた秀頼と家康の関係

しかし、家康が将軍に就任したからといって、世間はそれで家康が天下をとったことになるとはみなしていなかった。

たとえば、醍醐寺三宝院の門跡の義演による『義演准后日記』の慶長7年(1602)12月晦日の記述には、「秀頼卿関白宣下の事、仰せ出さると云々、珍重珍重」とあり、家康が将軍に就任すると同時に、秀頼は関白に任官すると、周囲が見ていたことがわかる。

また、毛利輝元も国元に宛てた慶長8年(1603)正月10日付の書状に、「内府様将軍ニ被成せ、秀頼様関白ニ御成之由候、目出たき御事候」と記している。つまり、「秀頼がいずれは関白になり、政権に復帰する可能性があるというのが、当時の人々の間では共通の認識だった」(本多隆成『徳川家康の決断』中公新書)ということである。

それを理解しているからこそ、家康も万全を期したものと思われる。じつは、実際に征夷大将軍に任官する1年前の慶長7年(1602)2月、家康は源氏長者補任の内旨、すなわち将軍宣下の打診を朝廷から受けたが、固辞している。儀式を執り行うために普請を進めていた二条城が未完成だったことなどが理由だと思われる。

そして、万事整った慶長8年(1603)2月12日、家康は伏見城に勅使を迎えて征夷大将軍に任ぜられ、同時に源氏長者、淳和奨学両院別当に任ぜられ、右大臣に昇進。3月21日には完成した二条城に入り、25日にそこから将軍宣下の御礼として参内した。

「豊臣秀頼像」(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■秀忠より秀頼の方が官位が上

こうして将軍になったのち、家康は秀頼への年頭の礼のために大坂に行くこともなくなり、徳川家と豊臣家の関係は大きく変化した。一方、変わらない点も多々あった。

関ケ原の戦いを経て、豊臣家の領地は摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府南西部)の65万石に削減された、といわれてきた。しかし、近年の研究で、秀頼の家臣たちの知行地が西国各地に細かく分布していたことがわかっている。あきらかに一般大名を超越した存在だったということだ。大坂城の備蓄金や、すでに大商業都市であった大坂を支配することによる経済力も、他の大名を圧していた。

そして、家康は将軍として豊臣系大名を指揮できるようにはなったが、豊臣家が豊臣系大名たちと並列の関係になったわけではなかった。将軍は大名たちにとって、豊臣家への忠誠と矛盾しない観念だった。

つまり、「秀頼と豊臣家を頂点とする従来の豊臣公儀体制は存続したままに、家康はそれと別個に新たな政治体制を設けたということ」であって、豊臣系大名たちは「豊臣家と秀頼に対する忠誠は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権に従っている」ということだった(笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」宮帯出版社)。

それは朝廷の対応を見てもわかる。慶長7年(1602)に家康が正二位から従一位に昇進すると、秀頼は従二位から正二位に昇進。家康が将軍任官と同時に右大臣に昇進すると、2カ月後に秀頼は内大臣に昇進している。家康のほうが位階と宮職は上位ではあったが、嫡男の秀忠よりは秀頼のほうが上で、慶長10年(1605)4月16日、将軍職が秀忠に譲られたのちも、秀頼は秀忠より上であり続けた。

こうした関係が抹消されるためには、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡するのを待たなければならなかった。

■いつ「幕府」ができたのか

加えていうなら、家康が将軍に就任後、幕府と呼べるような政治組織がつくられた形跡はまったくない。たとえば法令にしても、将軍就任から8年後の慶長16年(1611)3月28日に、二条城で行われた家康と秀頼の会見、すなわち秀頼に事実上の臣下の礼をとらせた会見ののちに出された三カ条誓詞まで、なにひとつ出されなかった。

笠谷和比古氏は「われわれは幕府が開かれたというと、何か巨大な官庁組織、全国を支配する統治機構が形成されたように感じてしまう。しかしそれは錯覚であり」と記す(笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収 笠谷和比古「徳川家康の政治と文化」宮帯出版社)。

一般に想像されるような統治機構を幕府と呼ぶなら、それが確立するのは元禄時代(1688~1704)を待たなければならないのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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