1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

究極の「どうする家康」の場面なのに…NHK大河ドラマがスルーした「家康が最も悩んだ30日間」に起きたこと

プレジデントオンライン / 2023年11月25日 13時15分

『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 完結編』(写真=PR TIMES/NHK出版)

徳川家康が生涯で最も苦しんだ時期はいつか。歴史評論家の香原斗志さんは「関ヶ原の戦いの直前の約1カ月間だろう。淀殿の思わぬ翻意に、家康は『どうする』と悩みもだえたはずだ。NHK大河ドラマでそのシーンが描かれなかったのは残念だ」という――。

■NHK大河ドラマで無視された「重大な要素」

映像はなかなか迫力があって楽しめた。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第42回「天下分け目」(11月5日放送)と、第43回「関ケ原の戦い」(11月12日放送)。コロナ禍に撮られた映像ではどうしても迫力が得られなかった戦闘シーンが、予算を割いて写実的に表現されていた。俳優たちの演技もいい。だが、大きく引っかかる点があった。

慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝討伐のために会津(福島県会津若松市)に進軍していた徳川家康(松本潤)率いる軍勢が、下野(栃木県)の小山(小山市)に到着したときのこと。上方から次々と情報がもたらされた。いわく「殿を断罪する書状が、諸国に回っている様子」「大坂はすでに乗っ取られている様子」「大谷刑部、小西行長、毛利は奉行としても加わっている様子」「宇喜多秀家も三成につきました」……。

それを受けて翌25日、家康は小山評定と呼ばれる軍議を開き、会津への進軍をやめて挙兵した石田三成(中村七之助)を討つために西上すると諸将に報告。大坂で妻子が人質になっているため、それぞれ進退は自由だと伝えたうえで、逆賊たる三成を討伐することの正当性を訴え、諸将に賛同を求めた。

この流れのなかに、テレビを見ながら驚いて、「えっ!」と声を上げてしまった場面があった。近年、「小山評定はなかった」と主張する学者もいるが、そのことではない。私はあったと考えている。

驚いたのは、小山評定を行った前提についてだった。小山評定が行われた時点では、家康たちは「殿(家康)を断罪する書状が、諸国に回って」おり、「大坂はすでに乗っ取られている」とはまだ認識しておらず、そのことがその後の行方を大きく左右したのに、「どうする家康」では、すでにその情報が届いていることになっていたからである。

■当初は石田三成が反乱軍だった

石田(治部少輔)三成が、会津討伐に向かう途中の大谷(刑部少輔)吉継を居城の佐和山(滋賀県彦根市)に呼び寄せ、挙兵計画を打ち明けて協力を打診したのは7月10日ごろだった。最初は渋った大谷刑部だが、結局、兵を率いて佐和山城に入り、2人が挙兵するという話はすぐに蔓延した。

だが、当初は「大坂はすでに乗っ取られている」どころか、その逆の状況だった。まず豊臣三奉行の一人、増田長盛は7月12日付で、遠征先の家康に「今度樽井に於て、大刑少(大谷刑部少輔)両日相煩、石治少(石田治部少輔)出陣の申分、爰元雑説申し候」と書かれた書状を送っている。刑部が病気で2日間滞留し、三成が出陣するという雑説が流れている、という内容である。

落合芳幾画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
石田三成と合流した大谷刑部。落合芳幾画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

さらに、徳川四天王の榊原康政が秋田の秋田実季に宛てた手紙(7月27日付)には、上方で三成と刑部が謀反を企てたので、大坂にいる淀殿や三奉行、前田利長らから、家康には急いで戻ってきてほしいという書状が届いた、という旨が書かれている。

つまり、少なくとも7月12日の時点では、大坂では淀殿のほか増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行も三成の挙兵に困惑し、事態を鎮静化するために急いで戻ってほしいと懇願していたことがわかる。加えて、伏見城の留守居をまかせてきた鳥居元忠から、三成方の軍勢に包囲されたことを知らせるために、7月18日に発った使者が家康のもとに着いていた。

ここまでの情報を得て開かれたのが、小山評定だった。

■正規軍→反乱軍になった家康

たしかに三成は挙兵したが、淀殿も三奉行もそれに困惑し、彼らから西に戻るように懇願されている。そういう状況なら、従軍している福島正則、浅野幸長、池田輝政ら豊臣系の諸将を、自分に味方させるのは難しくはなかっただろう。結果として、豊臣系の諸将は全員が家康に味方し、三成らと戦う意志を明確にした。

こうして豊臣系諸将は、小山評定の翌日の7月26日からいっせいに西上し、まずは福島正則の居城、尾張(愛知県西部)の清須城(清須市)に集結することになった。一方、家康は残って上杉方への防御を固めたうえで、清洲に向かうはずだった。

ところがその後、事態は急変する。前述した榊原康政が秋田実季に宛てた手紙の日付は小山評定の2日後の7月27日だった。その時点では家康方は、自分たちは大坂と一体だと認識していたことになるが、7月29日になって、大坂の情勢の激変が知らされる。

大坂では、三成と刑部の説得工作の結果、豊臣三奉行と淀殿が一転して、三成による家康討伐の企てに賛同していた。また、三奉行の要請を受けた毛利輝元が大軍を率いて大坂に向かい、輝元が大坂に着くのに先立つ7月17日、家康の非道を13カ条にわたり列挙して弾劾する「内府ちがひの条々」が出され、三奉行連名の添え状とともに全国の大名に届けられた。

こうして三成らが正規軍となる一方、家康は豊臣公儀から要請を受けた正規軍から一転、宣戦布告を受けた反乱軍になってしまったのである。

■家康の人生で最大の「どうする」

7月17日に出された「内府ちがひの条々」が家康のもとに届いたのは29日で、すでに豊臣系の諸将が西上したあとだった。かなり日数を要した理由を、笠谷和比古氏は「道が西軍勢力によって封鎖されていたことによると考えられる」と記す(『論争 関ヶ原合戦』)。

こうして重大な情報の到着が遅れた結果、次のような状況になった。三成の挙兵に対し、大坂から家康に事態の収拾を依頼する書状が届いたため、家康は小山評定において自信をもって三成打倒を訴え、豊臣系諸将の了解を得た。ところが、諸将が西に向かって出陣したのち、家康は大坂から宣戦布告を受け、反乱軍にされてしまった。

家康はどれだけ焦ったことだろうか。小山評定の時点では、三成らを討伐して豊臣政権において圧倒的な主導権を握るチャンスだと思っただろう。ところが、諸将が出発したのちに、自分は豊臣政権にとっての討伐の対象になってしまった。それは家康に従うと誓った豊臣系の諸将にとっても、驚愕すべき状況の変化だった。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
「三方ヶ原」の時よりも悩んだ 徳川家康三方ヶ原戦役画像(画像=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

そもそも、上杉討伐の際に家康に付き従っていたのは、主として豊臣系の大名で、彼らはあくまでも豊臣家のために上杉景勝を討とうとしていた。討伐の対象が石田三成に替わっても、目的に変わりはなかった。ところが、その豊臣家が三成ではなく家康を討伐するよう全国に指令を下したことで、小山評定で諸将が家康に従う決断をした際の前提条件は、完全にひっくり返ってしまったのである。

もはや、西上した豊臣系の諸将が、反転して家康に襲いかかってきてもおかしくない状況で、家康はどうしていいかわからなかったに違いない。家康の人生のなかで、これほど「どうする?」と煩悶したことはなかったのではないだろうか。究極の“どうする家康”。それがNHK大河ドラマでは完全にスルーされてしまったのだから、驚くほかなかった。

■脚本家の勉強不足が原因ではないか

冒頭で述べたが、大河ドラマでは小山評定の前に、大坂方による反家康の動きが、すべて家康のもとに伝わっている前提で話が進められた。そのため、豊臣秀頼のお墨付きをもらっている立場から反乱軍に転落するという劇的な展開と、それを受けての家康の煩悶を、描きようがなくなった。これはひとえに、脚本家の勉強不足が原因なのではないだろうか。

家康は自身が討伐の対象になったと知ったのち、8月4日に小山を発つが、翌日には江戸城に入っている。そして、そこに籠ったまま1カ月ほど動かなくなってしまった。

大河ドラマでもその間のことは描かれ、家康が江戸で各地の武将たちに宛てて書状を書く場面が映し出された。事実、この時期に家康方、三成方の双方から、数百通もの書状が北は津軽(青森県)から南は薩摩(鹿児島県)まで全国を飛び交った。だから、家康が江戸で書状をしたためる姿は、史実を反映しているといえるが、問題はこの間の家康の焦り、すなわち「どうする」と思い続けた心中がまったく描かれなかったことにある。

家康は調略の手紙を書くために江戸にとどまったのではない。豊臣系の諸将が小山で誓った前提が崩れ、彼らの行動が読めなくなったため動くに動けず、「どうする」か思い悩んだ1カ月だったのである。

■関ヶ原以上の緊迫した心理ドラマ

一方、清須に留まって家康を待っていた豊臣系の諸将からは、出馬する気配がない家康への疑問の声が上がっていた。家康は一か八かだったのだろう、村越直吉を使者として清須に送り、諸将が動かないから自分も動かないのだ、という人を食ったような口上を伝えた。それに発奮した福島正則以下の諸将は8月18日、岐阜城を攻めに出発し、木曽川を渡ると23日に岐阜城を攻撃し、その日のうちに陥落してしまった。

この知らせを江戸で受け取って、家康はようやく西上を決意。9月1日に江戸を発っている。福島以下諸将の動きの速さは家康の想定を超えており、このまま家康を抜きに決戦が行われれば、その後の政局で家康が出る幕はなくなってしまう。それを恐れた家康は東海道を急行し、11日には清須に着いた。その4日後の決戦の行方は、周知のとおりである。

ここに至るまでの状況の変転には、変化の時代の緊迫した情勢下ならではの歴史のダイナミズムがある。そこにはある意味で、関ヶ原における決戦以上に緊迫した心理のドラマがある。2023年のNHK大河ドラマのタイトルが「どうする家康」であるなら、ここにおける家康の煩悶にこそ、全48回中の最大の焦点を当ててもよかったのではないだろうか。

■NHKのBS番組では描かれていたのに

関ケ原の戦いについて、こうした詳細がわかってきたのは近年のことなので、これまでのドラマでは、小山評定における情報のタイムラグは描かれなかった。しかし、最新のドラマが、わかったことをスルーしているのは残念である。

NHKのBSプレミアムで今年2月4日に放送された「決戦! 関ケ原II」では、このタイムラグに焦点が当てられていたのに、肝心のドラマでは無視。脚本家の不勉強は予算を投じての見事な映像や俳優たちの努力にも、大きく水を差してしまう。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください