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ジョン・レノンの死から40年、生前最後のロングインタビュー完全翻訳

Rolling Stone Japan / 2020年12月8日 18時0分

ローリングストーン誌の表紙を飾ったジョン・レノン(Photo by Annie Leibovitz)

1980年12月8日に亡くなるわずか3日前、ジョン・レノンはローリングストーン誌との9時間に及ぶインタビューに臨んだ。

1980年12月5日(金)、ジョン・レノンはローリングストーン誌の編集者ジョナサン・コットとの9時間以上に及ぶインタビューを受けていた。インタビューニューヨークのアッパーウエストサイドにあった彼のアパートメントと、レコード・プラント・スタジオで行われた。それから3日後、レノンはスタジオでのミキシング作業を終えて自宅へ戻ったところで殺害されることとなる。インタビューは当初、1981年第1号のカバーストーリーとして掲載される予定だった。ところがレノンの死を受け、コットは急遽レノンの死亡記事に差し替え、インタビューの内容にはほとんど触れることがなかった。実は、インタビューのテープ起こしも完了していなかったのだ。レノンの死から30年が経ち(※訳注:2010年12月に米ローリングストーン誌が公開)、ここに初めてレノンが生前最後に受けた本格的なインタビューの全文を公表することとなった。楽しげでとても面白く、感動的かつ大胆で、ある意味危ない内容まで語っている。オノ・ヨーコとまだ幼かったショーンとの5年間に渡るプライベートライフを楽しんだ後で、レノンは再びスポットライトの当たる場所へ戻る矢先だった。

「奥の間へようこそ!」と言ってジョン・レノンは、明るく大げさな仕種でダコタ・ハウスの一室へ招き入れてくれた。天井にはオノ・ヨーコの手による美しい雲が描かれている。1980年12月5日。ソファに腰掛けると、隣に座ったヨーコが、2人の共作によるニューアルバム『Double Fantasy』の由来について語り始めた。前年の春、ジョンと息子のショーンはバミューダ諸島で3週間のバケーションを過ごしたが、その間ヨーコはニューヨークに留まり、彼女曰く「仕事を整理」していたという。バミューダからの電話でジョンは、ショーンを植物園に連れて行った時に「ダブル・ファンタジー」という花を見かけたことを彼女に伝えた。「フリージアの仲間だと思うが、2人の人間が同時にひとつのイメージを頭に思い浮かべると、不思議なことが起きるという意味に捉えた」とジョンは後に語っている。

「バミューダで、ある晩ダンスクラブへ出かけてね」とジョンがソファーに腰掛けながら割り込んできた。入れ違いにヨーコはコーヒーを淹れに立ち上がった。「クラブの上の階ではディスコ音楽が流れていたが、下から突然B-52sの『Rock Lobster』が聴こえてきた。僕は初めて聴いた曲だったが、知っているかい? ヨーコの音楽とそっくりだったんだ。”古いモノは捨てて妻を覚醒させるチャンスだ”と思った」というジョンは、それからヨーコに毎日電話を掛け、お互いが作った曲を相手に歌って聴かせたという。

私は「ここ5、6年は寝室の壁に掛けっぱなしで、最近になってようやく『Double Fantasy』の製作に取り掛かるため手に取ったギターがあると聞きました」とジョンに尋ねた。

「ヨーコとよりを戻して子どもができた頃に買った珍しいエレクトリックギターのことだね。普通のギターと違ってボディーがないんだ。肘掛けというか管やソリのような形で、座っても立っても弾きやすいように長さを調整できる。少し弾いただけでベッド横の壁に掛けっぱなしになっていた。でもその存在が気にはなっていた。まともに弾いたことがなかったからね。一時期を築いたアーティ・ショウが二度とクラリネットを吹かなくなったように、見るのが辛いからといって楽器をしまい込んだりしたくはなかったのさ。だから時々そのギターを眺めながら、”いつかこのギターを手に取る日が来るのだろうか?”と考えていた」とレノンは答えた。

「ギターの隣には9番ウッドや、さらにヨーコにプレゼントされた短剣も掛けてある。南北戦争時代のパン切りナイフで作った短剣で、不吉なものや過去を断ち切るという意味を込めて飾っていた。まるで実際にそこには存在しない1枚の絵のようだった。最近になって ”ああ、ついにこのギターの使い道がわかったぞ”と閃いたんだ。そこでギターを壁から降ろして『Double Fantasy』を作り始めたのさ。」

「私は『Double Fantasy』を繰り返し聴き込みました」と次の質問に移ろうとする私を、ジョンが微笑みながら遮った。「もしもし?」とジョン。「この数週間はまるで同窓会のようだ。イーサン・ラッセルが新曲のビデオを何本か撮ってくれたし、アニー・リーボヴィッツもここに来た。最初のローリングストーン誌の表紙は彼女が撮った写真だ。昔馴染みと再会してまた一緒にやれるのは楽しい。みんなまだ生き残っているんだな。僕らが初めて会ったのはいつだっけ?」

「あなたとヨーコに初めて会ったのは1968年9月17日です」と答えながら私は、その後何度も関わることとなった彼らとの最初の出会いを思い出していた。私はたまたま良い時に良い場所にいたラッキーな男だった。その頃ジョンは、ビートルズの一員としての仮面を剥ぎ取り、もっと「表に」出ようと決めていた。1966年11月に出会った2人は、アムステルダムとモントリオールで行う予定だった平和をアピールするためのベッドイン・パフォーマンスの準備を進めると同時に、アルバム『Two Virgins』のリリースも間近に控えていた。同アルバムは、シェイクスピアの「ノイズ、サウンド、スウィート・エア」を実践した2人による初めての実験的な作品だった。そして1周年を迎えるローリングストーン誌では、2人の裸の写真を使った悪名高きアルバムジャケットを掲載する計画が進んでいた。サンフランシスコで創刊されたローリングストーン誌は、当初はまだ貧弱な雑誌だった。そんな雑誌による初の「カミングアウト」インタビューをジョンが承諾したため、「ヨーロッパを拠点とする編集者」として私に白羽の矢が立ち、写真家と共にジョンとヨーコのもとを訪れた。その写真家こそイーサン・ラッセルで、彼は後にアルバム『Let It Be』に封入されたフォトブックの撮影を担当することとなる。興奮と緊張でドキドキしながら、私たちはジョンとヨーコが仮住まいしていたロンドンにある地下のアパートを訪れた。


第一印象というのは概して当たっているものだ。ジョンの場合は礼儀正しく、魅力的かつ華麗で、率直で茶目っ気のある人だという第一印象だった。ジョンがまるで太陽の絵を一所懸命に描く子どものようにメモを取っていた姿を思い出す。彼は30分後に『White Album』のレコーディングセッションの予定が入っていた。そこでインタビューは翌日改めて行うこととなったが、ジョンとヨーコは、イーサンと私をその日のセッションへ招いてくれた。その日はアビー・ロード・スタジオでレコーディングする『Birthday』と『Glass Onion』のセッションが行われた。(ビートルズの他の3人のメンバーが明らかに苛立っているのを感じ取った私は、彼らの気に障らないようにスタジオの巨大なスピーカーの後ろで隠れるように見学した。)

ジョンとは会うたびに新たな発見があった。1971年はニューヨークでジョンとヨーコに偶然出会った。私は友人と映画『Carnal Knowledge(邦題:愛の狩人)』を観に出かけたが、映画館のロビーで2人にばったり出会ったのだ。イッピーの活動家ジェリー・ルビンらと一緒にいた彼らは、ロウアー・イースト・サイドにあるレストランRatnersへ車で行こう、と私たちを誘ってくれた。レストランでは、長髪の若い男が微笑みながら私たちのテーブルへ近づいてきた。無言でジョンに差し出した名刺には「ヨギ メヘル・ババ」とだけ書かれている。ルビンは名刺の裏に鉤十字を描いて立ち上がり、その男に突き返した。ルビンが戻ってくるとジョンは、そんなことをしても人の意識は変えられないよ、と優しくたしなめた。辛辣で懐疑的な彼も、常に思いやりだけは忘れなかった。

それから約10年。ジョンは変わらず思いやりとウィットに富んだ人だった。「読者に、あなたの今着ているものを伝えたいと思います」と私が言うと、ジョンは「僕が文章を作ってあげるよ」とニヤリと笑いながら続けた。「彼がかけている眼鏡はブラスチック製で、青いフレームのごく普通の眼鏡だ。有名な細いメタルフレームの眼鏡とは全く異なる。あの有名な眼鏡は1973年以降使用していない。彼はコーデュロイのパンツに同じく黒のカウボーイブーツを履いている。1973年にNudiesであつらえたものだ。上はカルバン・クラインのセーターにミック・ジャガーの破れたTシャツという出で立ちで、Tシャツは1970年位のストーンズのツアー時のものだ。首にかけられた小さなダイヤモンドをあしらったハート形のネックレスは、何年も前に喧嘩の後で仲直りの印にヨーコへプレゼントしたもので、その後彼女からある儀式の最中に彼へ返された…こんな感じでどうだい?」とジョン。

「ところで週明けが締め切りだろ? こんなことをしていないで急いで済まそう。」

ー『Double Fantasy』は5年振りの作品ですが、「The Ballad of John and Yoko」で歌っているように、「2人揃って戻ってきて嬉しい」という感じです。

でも僕が社会から隔離した生活を送っていたなどという幻想は、ジョークだ。僕は普通の人たちと変わらない。9時から5時まで働いて、パンを焼き、子どものオムツを替えたりあやしたりしている。「どうして地下へ潜って隠れていたんだ?」とよく聞かれるが、僕は別に隠れていた訳ではない。シンガポール、南アフリカ、香港、バミューダと、世界各地を旅していた。映画を観に出かけたり、ごく普通の生活を送っていたよ。

ーそれでもここ数年はほとんど曲を作っていませんでした。

それはしていないな…でも子どもを作ることは、僕ら2人にとって大切な出来事だった。子どもを作るために僕らがどれほど苦労して、流産したりヨーコ自身が死にかけたりしたことを、みんなたぶん忘れているだろう。死産やドラッグの問題や、自らが招いた公私のさまざまな問題を抱え、友人たちが手を差し伸べてくれたりした。しかし、そんなことはどうでもいい。ストレスの多い状況に身を置いていたが、10年かけてようやく子どもを持つことができた。僕らはこの幸せをダメにしたくない。僕らは一年間何もせず、テレビに出ている白髪混じりの女性に合わせてヨガをしたりしているんだ(笑)。


ーあなたがゴールにたどり着くことは決してないでしょう。曲を書いてレコーディングしていないと人々はあなたを批判します。でも過去3枚のアルバム『Some Time in New York City』、『Walls and Bridges』、『Rock N Roll』があまり支持されなかったことは、忘れられているようです。特に「Attica State」、「Sunday Bloody Sunday」、「Woman Is the Nigger of the World」を含む『Some Time in New York City』は、共産主義的プロパガンダだとして不評でした。

そうだね。あれはみんなを怒らせた。ヨーコは「ベルトルト・ブレヒト」と呼んだが、僕は例によって何のことだかわからなかった。4年前に彼女がリチャード・フォアマン監督の「三文オペラ(訳注:ブレヒト作)」を観に連れて行ってくれた時に、彼女の言いたかったことをようやく理解した。僕はいつでも苛々させられていたが、僕はわざと、誤植だらけで時系列も事実もめちゃくちゃで、締め切りまでに帳尻を合わせろという態度の新聞のようにやってみたんだ。

でも僕は初めから何度も何度も批判されてきた。「From Me to You」を「ビートルズの標準以下」と言われたことは、決して忘れない。NME(編集注:ニュー・ミュージカル・エクスプレス)のレヴューだった。クソッ! おっと失礼。「Please Please Me」ほどいい曲ではなかったと言いたいのだろうが、「標準以下」とはどういうことだろうね。あの批評は絶対に忘れない。それにプラスティック・オノ・バンドのアルバムに対するレビューがどんなに酷かったか知っているかい? もうボロクソさ。「やりたい放題の短絡的な泣きごと」って感じさ。プラスティック・オノのアルバムは『Ziggy Stardust(訳註:デヴィッド・ボウイのアルバム)』でも『Tommy(ザ・フーのアルバム)』でもなく、僕ら自身をテーマにした作品なんだ。それからアルバム『Mind Games』も、評論家たちは気に入らなかったようだ。

だけどこれは僕だけのことではない。ミック(ジャガー)もそうだ。ミックは20年もコンスタントにいい仕事を続けている。そんな彼を休ませたりするかい? 「彼を見てみろ。彼は37歳にしてナンバーワンだ。『Emotional Rescue』のような素晴らしい曲もある。彼はもうそこまでか?」などとミックが言われることはないだろう。僕はこの状況を楽しんでいるし、楽しんでくれる多くのファンもいる。それからブルース・スプリングスティーン。彼はもはや神ではない、などと批判された。彼と直接会ったことはないが、いい噂を耳にしている。ファンは今の状況に満足している。彼は酔っ払って女の子を口説く話や車の話題などをファンに打ち明け、ファンもそんな状況に満足している。だけど彼が年を重ねて過去の栄光にしがみつき、それでも作品を出し続けることが求められるようになった時、彼はそっぽを向かれるだろう。僕は彼が上手くやってくれることを期待している。彼は僕やミックを手本にして欲しい。もちろん浮き沈みはあるが、僕らは機械人間ではないだろう? 彼は何を期待されている? ステージ上で自ら死んで欲しいと望まれているのか? 僕とヨーコがステージ上でベッドインしたり殺しあったりするのを見たいのか? 「From Me to You」がビートルズの標準以下と評価された時に初めて気づいた。とにかく自分は続けていくしかないってね。車輪に乗ってグルグルと回り続けなければならないシステムみたいなものがあるんだ。

ー車輪は何を表すのでしょうか?

地球全体はひとつの車輪みたいなものだ。グルグルと回り続ける。眺めている中心にあるのは自分自身の車輪だが、自分を見つめることで他の人々が見えてくる。それから自分の子どもを通じて自分自身を見つめ直すこともできる。

子どもといえば、まだまだ大変だ。僕はとても良い父親とは言えないが、とにかく一所懸命にやっている。でもとても短気な人間だから、落ち込んだりもする。喜んだりがっかりしたりの繰り返しだ。子どもの方もそれに付き合わねばならない。アメとムチさ。それが彼の将来にどんな影響があるかはわからない。とにかく僕は彼と一緒にいるようにしている。

人は誰もが身勝手だ。でもいわゆるアーティストは特に自己中心的だと思う。自分の気分やささいな自分の問題などよりもヨーコやショーン、或いは他の誰かのことを優先しようとすると、ストレスになる。もちろん、見返りや喜びも得られるんだが…

ー本能的な身勝手さと格闘している訳ですね。

そう。ドラッグをやったり不味いものを食べたり、運動不足の状態と同じさ。子どもの面倒を見るのと同じくらい難しい。全く自然にできないんだ。僕らは皆同じように育てられたと思うが、自分の子どもであっても、他の人間のことを思いやるのは本当に難しい。

ーでも「Beautiful Boy」のような曲を通じて彼のことを思いやっています。

ああ。でも曲を作るのは絵を描くのと同じように簡単だ。ゴーギャンはタヒチなんかにはまり、娘のために大作を描いた。確か映画でそのような話を見た。とにかく彼はタヒチで娘の絵を描いたが、彼女はデンマークで死んでいる。娘とは20年間会っていなかったというんだ。彼は性病にかかっていて、タヒチでは正気を失っていた。彼が亡くなりその絵は焼かれてしまった。だから彼の生涯の傑作を誰も見ることができないんだ。僕は常にそうなるのを恐れている。だから僕は自分の子どもをテーマにした曲を書く。子どもとボール遊びをするよりも、曲を書いている方がずっと楽なのさ。子どもと遊ぶのが最も苦手なんだ。他のことは何でもこなせるんだけどね。


ー遊ぶのが苦手なんですか?

無理だ。そこで考えついたのは、子どもと絵を描き、テレビを見ること。それなら得意だ。体を動かして遊ぶのでなければ、どんなくだらない番組でも我慢できる。彼と話し、本を読み聞かせ、散歩に出て喫茶店に寄ったりといった感じさ。

ーそれは不思議ですね。あなたの絵や曲の多くはとても遊び心に溢れています。

それはたぶん僕というよりポールの作品だね。

ー「Good Morning Good Morning」はどうでしょう? あなたの素晴らしい作品のひとつです。仕事を終えてあてもなく街をさまよう年老いた男の話です。彼は家に帰りたくないが、特に文句もないという内容でした。

ああ、あれはちょっとしたウォーミングアップだった。ペパー(訳註:アルバム『Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band』)向けの曲を1週間で準備しなくてはならなかったんだ。「Good Morning Good Morning」は、当時流れていたケロッグのコーンフレークのCMをヒントに作った曲で、その頃自分がどれだけ曲作りに嫌気がさしていたかがわかるよ。

『Lennon Remembers』(編集註:1970年に行われたヤン・ウェナーとの伝説のインタビュー)やプレイボーイ誌の最新インタビュー(編集註:1980年9月8〜28日にかけて行われたデヴィッド・シェフとのインタビュー)を読み返してみると、曲作りが辛い、苦しいと常々愚痴っていたことがわかる。僕の作ってきた曲は、ほとんど全てが拷問のような苦しみの中から生まれたものだからね。

ーほとんどが拷問だったのですか?

その通り。曲作りの時は毎回、これは意味がない、これはカスだ、これはよくない、これはピンと来ない、これはゴミだ…という感じで、たまにいいなと思っても結局は「何じゃこりゃ?」という具合だった。

ーある意味で産みの苦しみといったところでしょうか。

とにかく酷い状態だった。「ああ辛かった。正に四苦八苦だ」と感じるだけだった(笑)。10曲かそこらは、パッと閃いて作れたこともある。

ー『Double Fantasy』用の楽曲は容易に生まれましたか?

そうでもない。実際には5年かかった。5年間の便秘の後で3週間の下痢状態さ(笑)。実際の作曲作業は3週間かそこらだった。ヨーコに教えてもらった禅の話がある。確かローリングストーン誌かプレイボーイ誌のインタビューでも話したと思う。ある王様が画家のところへ使いを送って絵画の製作を依頼し、金も支払った。画家は「OK、また来てくれ」と言った。1年後、使いがやって来て「王様が絵の完成を待っている」と告げると、画家は「ああ、ちょっと待ってくれ」と使いの目の前でサラサラと絵を描き上げた。渡された絵を見て「何ですかこれは。王様はたった5分でやっつけたこんなゴミクズに2万ドルも払ったのですか?」と詰め寄る使いに対して画家は、「そうだよ。でもその前に10年かけてじっくり構想を練っていたんだ」と答えた。つまり僕の場合も、5年間という時間がなければ『Double Fantasy』の曲は書けなかったということさ。


この時ヨーコが部屋に入ってきて、ジョージ・ハリスンを名乗る男が電話で来て欲しいと言っている、と告げた。「もちろんジョージ本人じゃないさ」とジョンはつぶやいた。「電話の相手はトリップしていたみたい」とヨーコは言う。「”ちょっと聞いていい?”って言ったら相手は”ノー”って言うのよ。”ヨーコ、そんな暇はない”だって。だから電話を切ってジョージの電話番号へ掛けたら、本物の彼は寝ていたわ」。それを聞いて私は笑い出した。「僕らも笑いたいよ、まったく。こんなことは笑い飛ばさずにいちいち相手をしていたら、身が持たないよな」とジョン。

部屋へ来たついでにヨーコは、日本版プレイボーイの最新版をジョンに渡した。2人の記事が特集されていたのだ。「僕らの子どもは後ろ姿だけ写っているのはありがたいね」と雑誌の中の1枚の写真を見てジョンは言った。「ショーンの写真は出回って欲しくない。スターの多くは子どもができると、”子どもができました”と喜んで表紙を飾りたがるが、僕は興味ないね。危険だ。もちろん僕らはその辺のトムやディックスやハリーといった一般の人にはなれないし、狭いコテージに住んでいるふりもできない。また僕らの子どもも普通の子どものようには育てられない。ジュリアンの時にそうしようとして、初めは彼を労働者階級の通う公立学校へ通わせた。だけど有名人だったから、当然のようにいじめられた。当時の妻はついに我慢できなくなり、”彼は私立へ通わせるわ。こんな所では彼がダメになってしまう”と怒った。」

ジョンはヨーコに渡されたプレイボーイのページをめくり始めた。「この雑誌の半分は日本の女の子のおっぱいだらけだ。見てみろよ」と言ってジョンは私に写真記事を見せてくれた。「みんな可愛い。日本ではアソコを露出することは禁止されているから、胸だけだ。キリスト教が伝来する前の日本は、完全にフリーセックスの国だったんだ。タヒチ人のようにね。別にわいせつな意味ではなく、彼らにとってそれが自然だったんだ」とジョンは言う。「キリスト教徒がその状況を変えたのでしょうか?」と私が尋ねると、ジョンは「そうさ。キリスト教では自由にセックスもできない。ユダヤ教もそうさ」と答えた。「そうかもしれないですね」と私が同意すると、彼は「ゴメンゴメン、気にしないでくれ」と私の肩をポンポンと叩いた。「さあ、次の話に行こう。何でも聞いてくれ!」


ー自分の妻や誰かほかの人間にアルバムの半分を委ねたロックンロールのスターは、私の知る限りいなかったと思います。とてもユニークです。

このようなやり方は今回が初めてだ。以前一緒にアルバムを作ったことはある。『Live Peace in Toronto 1969』ではA面が僕、B面がヨーコという構成だった。でも『Double Fantasy』は共同作品だ。ジョン&ヨーコとして蘇ったんだ。元ビートルズのジョンとヨーコ&プラスティック・オノ・バンドではなく、完全に2人だけの作品だ。アルバムが売れなければ、ジョン&ヨーコの音楽に誰も興味を持たなかったんだんだな、というスタンスだった。或いはもうジョンはお呼びでないか、ジョンとヨーコの2人は見たくないのか、もしかしたらヨーコひとりが見たいのかもしれない。でも僕ら2人が受けるか受けないかには関心がなかった。デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンなんかとスポットで組んだことはあるが、僕のキャリアを通じて一緒に組んだのは、ポール・マッカートニーとオノ・ヨーコの2人しかいない。僕がポールをビートルズの前身であるザ・クオリーメンに引き込んだ。そしてポールがジョージを連れてきて、ジョージがリンゴに声を掛ける、いった具合さ。そして僕が次にアーティストとして興味を持ち、一緒に仕事できると思ったのがオノ・ヨーコさ。悪い選択ではないと思う。

今はファンが唯一の判断基準だ。小規模や中規模でもいいのだろうが、僕としてはもっとたくさんのファンの前でやりたい。僕の将来は美術学校時代に決まった。もしも画家の類になるのなら、屋根裏に籠って小さな作品を描き続けて一般には公開しないというタイプではなく、自分の作品はできるだけ多くの人に見てもらおうと決めたんだ。

美術学校へ入学した時、周りは芸術家気取りの奴ばかりだった。特に男子はジーンズに絵の具を塗りつけて、格好だけは画家だった。そいつらは絵筆にやたらと詳しくて、芸術的な美学について得意げに語り合っていた。でも彼らは結局、美術の先生になったり趣味の日曜画家にしかなれなかった。美術学校では、女の子とアルコール以外楽しいことはなかった。カレッジライフを満喫したが、美術に関してはこれっぽちも学ばなかった。

著作『In His Own Write』やアルバム『Walls and Bridges』のアルバムカバーやインナースリーヴ、それからすぐにあなたのものとわかる「レノネスク」の漫画のように、あなたの絵はいつもユニークで楽しい感じです。

『Walls and Bridges』の絵は、10歳か11歳の頃に描いたものだ。でも美術学校では、そんなセンスを僕から取り除こうとした。僕が思い通りに描こうとするのを止めさせようとしたが、そうはいかない。でも漫画以上のものを描こうとは思わなかった。漫画家というのは、画家として失敗するのが嫌な、クリエイティヴな才能に恵まれた人間だというのを聞いたことがある。だから彼らはコメディーっぽく描くんだという。僕の場合は、日本の水墨画に近いんだ。上手く描けなければ破り捨ててしまえばいい。ヨーコと出会った時に、彼女がそんな考え方を僕に植え付けてくれたんだ。彼女は僕の絵を見て言った。「日本的ね。あなたのやり方を変える必要はないわ。これこそ正にあなたのやり方なのよ!」ってね。

ヨーコと僕の生まれ育った環境は違うが、伝える手段を必要としている点は共通している。僕に媚びへつらって付いてくるちっぽけな一部のエリート集団には興味がない。僕が関心あるのは、それが言葉であれ作品であれ、できる限り全力で伝えること。僕の場合はそれがロックンロールなんだ。窓の外を通り過ぎるキリンを眺めている感じさ。普通の人は物事の一部分しか見ようとしない。でも僕は全体を見ようと心がけている。自分の人生だけでなく宇宙全体、つまり全部を見るのさ。それが大事だろ? だから組む相手がポールだろうがヨーコだろうが、同じ結果になるんだ。自己表現でも会話のキャッチボールでも、或いは植物のように花を咲かせては枯れ、咲いては枯れの繰り返しでも結果は同じさ。

ーヨーコの楽曲「Hard Times Are Over」では、ヨーコのヴォーカルの裏にゴスペルのようなコーラスが聴こえます。

聖歌隊(編集註:ザ・ベニー・カミングス・シンガーズ・アンド・ザ・キングス・テンプル・クワイヤー)が歌っている。とても美しい歌声だ。録音する直前に、聖歌隊の全員が突然お互いの手を取りひとつに繋がった。それを見たヨーコは涙を流していた。正に僕らの気持ちが通じたと思って感動したよ。キリストであれブッダであれ、僕らは気にしない。聖歌隊が「イエス・キリストと神に感謝します」と手を繋いだので、僕は「テープを回せ! 録音できているか?」と叫んだ。「イエス・キリストと神に感謝」し、歌が始まった。

レコーディングが終了すると、聖歌隊は神に感謝し、そして共同プロデューサーのジャック・ダグラスにも感謝の意を示した。彼らは作品に参加できたことを喜び、我々も彼らに感謝の気持ちを伝えた。聖歌隊の礼拝を間近で体験したのは初めてだった。フィル・スペクターがよくゴスペルについて話していたので、一度経験してみたいと思っていたんだ。でもこれまでは勇気が出なくてね。とても素晴らしかった。毎日スタジオへ通いプレッシャーのかかる中で、その日はとても良い日だった。子どもたちが集まり、食事やクッキーを与え、歌い、「神を賛美」する。とても見事だった。あの曲のレコーディングの聖歌隊は圧巻だった。

ーアルバム『Double Fantasy』には不思議なサウンドコラージュも聴こえます。あなたの「Watching the Wheels」とヨーコによる魅力的な1930年代風の「Yes, Im Your Angel」の間の部分です。売り子らしき声と馬の蹄と馬車の音に続き、レストランのドアの軋む音がして、室内ではピアノとヴァイオリンによる演奏が聴こえてきます。

説明しよう。声のひとつは僕が「神のお恵みを。お願いです、どうぞ恵んでください。あなたには幸運の相が出ています」と言っているんだ。イギリスのホームレスがよく使う言葉さ。それを僕がつぶやいている。その後の音は、ヨーコと僕が”ストロベリーとヴァイオリンの部屋”と呼んでいるプラザホテルのパームコート・レストランで録った音を編集したものだ。僕らは時々パームコートを訪れて、古いヴァイオリンの曲を聴きながらイチゴのデザートとお茶を楽しんでいる。ロマンティックな空間さ。冒頭の音は、行き交う車をただ眺めているハイドパークの片隅でよく見かけるホームレスがいて、通りがかりの人たちが帽子にコインを投げ入れる様子を、スタジオで再現したんだ。みんなで歩き回って帽子にコインを投げ入れ、ホームレスが「ありがとう、ありがとう」と言う。それからニューヨークの街を馬車で流してホテルに着くと中ではヴァイオリンの演奏が聴こえ、女性歌手が天使の歌を歌い出すんだ。

ーヨーコが「Im in your pocket/Youre in my locket/And were so lucky in every way」と歌う「Yes, Im Your Angel」の次に、あなたの美しい曲「Woman」が続きます。「Woman」は、中世の女性に宛てたトルバドゥールの詩のようです。

「Woman」は、バミューダ滞在中のある晴れた午後に突然浮かんだ曲だ。ヨーコが僕に尽くしてくれることというよりは、女性全般のことを歌っている。もちろん、僕はいつでも歌にあるようなことを考えているけれど、内容は世界共通のものだと思う。普段は当たり前のように感じて見過ごしていることを、あらためて認識したんだ。曲の冒頭で僕が囁いているように、空の半分は女性が占めている。つまり、それで「我々」が成り立っているんだ。それから別に意識した訳ではないが、この曲はビートルズの作品を連想させる。かなり前に作った「Girl」の時も、同じようにアイディアが溢れ出てきてできあがった。「Girl」が成長して「Woman」になったんだ。


ーヨーコは古代エジプトのアートやアンティークに興味を持っていて、自宅にもちょっとしたコレクションがありますね。「空の半分」に関連して面白い話があるのですが、古代エジプト神話で空は女神の象徴とされています。母なる大地が女神の象徴ではなく、地球は男神の象徴なのです。

でも僕はヨーコを「Mother」と呼んでいる。次期米大統領(編注註:ロナルド・レーガン)が妻を「Mommy」と呼ぶようにね。子どものいない人にとっては奇妙に聞こえるかもしれないが、子どもを持ったら夫婦はお互いをそう呼び合うようになるんだ。ヨーコは僕を「Daddy」と呼んでいる。フロイト的とも言えるが、ショーンが僕を「Daddy」と呼ぶからそうなるんだよ。時々僕はヨーコを「Mother」と呼ぶが、それは以前彼女のことを「Mother Superior」と呼んでいたからなんだ。ビートルズの「Happiness Is a Warm Gun」を聴いてみるといい。ヨーコはMother Superiorであり、僕の息子の母親であり、僕自身の母であり娘でもある。僕らの間には、さまざまな関係があるのと同様に多くの段階がある。でも全く不自然さはない。

たった1枚のアルバム、1つの楽曲で僕が表現しようとしていることをいちいち取り上げて評価されたり、批判されたりする。でも僕にとっては、生涯かけた創作活動の中のひとつに過ぎない。少年時代の絵画や詩に始まり、僕が死ぬ瞬間までのひとつの大きな制作過程の一部なんだ。このアルバムは壮大な作品の一部である、などといちいち言わない。理解できなければ忘れてくれて結構だ。『Double Fantasy』の冒頭に少しヒントがある。「(Just Like) Starting Over」の最初の鐘の音がそうだ。ヨーコによる幸せへの願いを込めた鐘で、アルバムが始まる。一方で、プラスティック・オノ・バンドのアルバムに収録された「Mother」では、弔いの鐘がゆっくりと鳴る。教会の重々しい弔いの鐘から、小さく響く明るい幸せの鐘まで長い時間が経過しているが、僕にとっては全てが繋がるひとつの作品なんだ。

ー「Woman」では「Woman, I will try to express/My inner feelings and thankfulness/For showing me the meaning of success」とも歌っています。

有名アーティストやスターとして成功するのがダメだと言っている訳ではないし、またそれが良いことだとも言っていない。「Working Class Hero」の曲が皆に誤解されているのは、これが皮肉を込めた曲だと思われていることだ。この曲は社会主義とは関係がない。「旅を最後までやり遂げたければ、僕のいる場所まで追いついて来い。そうすれば自分の理想的な姿になれる」という意味だ。僕はアーティストとして成功し、良いことも悪いこともあった。リヴァプールやハンブルク時代は無名だったが、楽しいこともあったし、楽しくないこともあった。ヨーコ曰く本当の成功とは、自分が人として成功することであり、彼女や子どもとの関係や世界と自分との関係が上手く行くことだ。そして朝起きた時に幸せだと感じられること。ロック・マシーンだろうがそうでなかろうが関係ない。

僕はリッチになってはいけない殉教者か何かになるべきだと思われているのだろうか? あるろくでなしが最近、エスクァイア誌のカバーストーリーに書いていた。

編集註:同誌1980年11月号に掲載されたジャーナリストのローレンス・シェイムズによる辛辣な記事『ジョン・レノンよ、いったいどこにいる?』のこと。同記事でシェイムズは、「私は沈黙を続けるジョン・レノンを探していた。彼はやたらと他人を怒らせてきた。私のレノンは辛辣な道化師で、欠陥だらけだが立ち直りの早い人間だ。時には大きな赤ん坊であり、真実を探し求める哀れな人間でもある。彼の苦痛に満ちて滑稽で真面目くさった誇大妄想の容貌は、彼の世代の象徴であり良心だった。私の見たレノンはテレビを観るのが大好きで、1億5000万ドルを稼ぎ、息子を溺愛し、さらに電話の途中で割り込んでくるような妻を持つ40歳のビジネスマンだ。ジョンよ、これが君の真の姿なのか? 君は本当にもうギブアップしてしまったのか?」と書いている。

この記者は、20ヶ月かけて僕の行動やくだらないことを観察し続けていた。その間に僕はアルバムを制作したが、このろくでなしは、くだらない面だけを見ていた。まったく、奴らはいったい何が言いたいんだかわからない。僕はいったい何を買うべきだったんだ? 奴隷か、売春婦か?(笑)奴らは自分たちの雑誌や商品がただ売れれればいい、という汚い心の持ち主だ。そんな物は買う価値も無いし、そもそも必要が無いもので、3ヶ月ごとに交換が必要だ。そんな奴らが、僕の何を非難する権利がある? 記事を書いた人間は、かつては普通のいい奴だったのだろうが、今は振られた腹いせに恨み節を並べているような奴だ。奴のことは全く知らないが、僕について勝手に描いた妄想を追い求めることに一所懸命だったんだ。それで結局、思い通りのものが見つからなかったから怒っているのさ。

アーティストに対して抱いた妄想に基づく批判は、アイドル崇拝のようなものだ。僕らのリヴァプール時代に応援してくれたリヴァプールのファンの多くが、その後僕らがビッグになってマンチェスターへ進出すると離れていったのと同じさ。彼らは僕らに裏切られたと思っているんだ。そして僕らがさらにビッグになって世界へ出ると、今度はイギリス人が怒り出す。いったい何なんだろうね? 人気が出るまでは好きでいてくれるが、いざ人気が出ると彼らにとっては裏切りでしかないんだ。今更人気の出る前に戻ることなんてできない。彼らは、シド・ヴィシャスやジェームズ・ディーンのように死んだヒーローを求めているんだ。僕は、死んでしまったヒーローに興味はない。彼らは忘れてしまうべき過去の存在だ。

ユージン・オニール(訳註:20世紀初頭の米国の劇作家)は評論家について、「彼らの頭の中にある骨のひとつひとつまで愛している」と言っている。つまり評論家に対抗する唯一の方法は、公の場で彼らと直接やり合うしかないということだ。僕らがベッドインや『Two Virgins』やプラスティック・オノ・バンドのアルバムでやってきたことや、僕らが今続けていることが正にそれだ。それから僕らは、いろいろな人からの声を聴いている。ヨークシャーに住む少年から、東洋人とイギリス人をジョンとヨーコに関連付けた心のこもったファンレターをもらった。彼は学校で浮いた存在だろう。僕らのことを、愛と平和とフェミニズム、そして世界のポジティブな事象を象徴する人種の異なるカップルだと見るファンは多い。しかしマスコミはいつも、窓の外を通り過ぎるキリンの首の部分しか見ようとしない。だから彼らは全く物事の全体を把握できないんだ。

取るに足らないことだが腹立たしいのは、今やビール腹を抱えた60年代のロック評論家たちだ。彼らはジョン・ランドー(編集註:音楽評論家、レコードプロデューサー、ブルース・スプリングスティーンのマネジャー)のようなガッツは持っていない。彼は自ら現場で実践する根性があった。僕はレスター・バングスを尊敬している。彼はミュージシャンであり評論家でもある。彼は何度も、僕のことを批判してきたと思う。ランドーも、僕を褒めたりけなしたりしたに違いない。有名な評論家は皆、僕を褒めたりけなしたりしたが、実践しているのはごく一部だ。『Lennon Remembers』のインタビューや美術学校でも言ったように、僕は行動派であり、傍観者ではない。何も隠し立てするものもない。そういう曲を覚えているかい?

「Everybodys Got Something to Hide Except Me and My Monkey」ですね。「Your inside is out, and your outside is in/Your outside is in, and your inside is out」という歌詞が気に入っています。

そう。でも評論家たちの評価はというと、「やや単純でイマジネーションに欠ける」というものだった。たぶん「君の内面は、タイムズスクエアにたむろする性病にかかったティーンエイジャーから流れ出す腐った汁のようだ。僕はそこでヘロインを打って顔を白塗りにし、赤い革のニッカーボッカーを履いてパフォーマンスしている道化師だ」とでも歌えば気に入られたんだろうね。

ー素晴らしい。アレン・ギンズバーグのようです。

その通り。誰でもギンズバーグになれるし、彼は好きだ。でも無駄な部分をできるだけ削ぎ落として、核心をつく歌詞を書くように心がけてきた。時には『I Am The Walrus』のような曲もあるけどね。木の枝葉を描くことに興味はないんだ。僕は木に登ったり木の下にいるのが好きなんだよ。


ーあなたの作品は一貫して、自分らしくあれ、そして力を合わせて改革して行こう、という人々に対する強いメッセージが感じられます。「Give Peace a Chance」、「Power to the People」、「Happy Xmas (War Is Over)」などはその代表格だと思います。

まだある。新しいレコードのロゴ周りのレコード盤を見ると(編集註:「(Just Like) Starting Over」の12シングル)、ブラジル、オーストラリア、ポーランドなど世界中の子どもたちが集まり、中心にはひとつの世界、ひとつの人々が描かれている。僕らは続ける。「Give Peace a Chance」は決して「Shoot People for Peace」ではない。「All You Need is Love」もかなりハードルは高いが、僕は絶対的に信じている。

「国境のない世界を想像してみよう」や「平和を我等に」などと言ったのは僕らが初めてではない。でも僕らが先頭に立って、オリンピックの聖火リレーのように人々の手から手へ、国から国へ、世代を越えて繋がっている。これが僕らに課された使命なんだ。誰かに敷かれたレールに沿って生きるのでない。金持ちになるか貧乏か、幸せか不幸か、笑っているかしかめっ面をしているか、カッコいいジーンズを履こうがどんな格好をしようが、生き方は自分次第だ。

神のこころを説いているのではないし、ピュアな精神を勧めてきた訳でもない。ましてや人生に対する答えを与えてきた訳でもない。僕はただ曲を作り、聞かれたことにできるだけ丁寧に答えているだけだ。ただ誠実に対応しているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。僕に対する周囲からの期待に応えるために生きることなどできない。それらはただの幻想だからね。僕がハンブルクやリヴァプールでパンクロッカーになるには、歳を取り過ぎている。今はさまざまな目を通して世界を見ている。でも若い頃と変わらず平和と愛と相互理解を信じている。エルヴィス・コステロも歌っているように、平和や愛や相互理解の何が悪い? やり手となって汝の隣人を十字架で打つなどというのがもてはやされる時代かもしれないが、僕らは流行を追うような人間ではないからね。

ー私はあなたの楽曲の中で「The Word」も好きです。

その言葉は「愛」だった、だね。

ー「Instant Karma」で「Why in the world are we here?/Surely not to live in pain and fear」と歌っています。これは、あなたとヨーコの作品全てに通じる考え方だと思います。ヨーコの新曲「Beautiful Boys」で彼女は「Please never be afraid to cry. . . . Dont ever be afraid to fly. . . . Dont be afraid to be afraid」と歌っています。とても素晴らしいと思いました。

美しい曲だ。僕は心配性だが、恐れることを恐れない。そうでなければ何でもかんでも怖くて仕方がないからね。自分らしさを殺そうとすることの方が辛いからね。人は一所懸命に他人を真似ようとしている。それは癌とかとんでもない病気につながると思う。ジョン・ウェインやスティーヴ・マックイーンらタフガイの多くが癌で亡くなっていることを知っているかい? 専門家ではないからよくわからないが、ある幻想やイメージに囚われ、自分の中の一部分を抑圧して生きることと病気とは、何らかの関係があると思う。抑圧する対象が自分の弱々しさの部分であったとしてもだ。

マッチョで虚構の学校出身の僕には、それがよくわかる。僕は不良少年でもタフガイでもなかった。テディーボーイのような格好をして、マーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリーの真似をしていたが、リアルなストリートファイトや昔ながらのギャングにはならなかった。ロッカーを気取ったただの都会っ子だったんだ。しかしタフに見せようと一所懸命だった。少年時代は肩を精一杯怒らせて眼鏡を外して歩いた。眼鏡をしていると何だか女々しく見える感じがしたからね。内心ビクビクしていたんだけれど、できるだけ怖そうな顔を作っていた。見た目だけで喧嘩を売られることもあったが、自分としてはタフなジェームズ・ディーンのようになりたかったんだ。そんな態度を止めるのにはかなり葛藤もあったし、不安を感じたりナーバスになった時にはまた元に戻ってしまうこともある。「俺は不良少年だ」的な気分になった時には、本来の自分はそんなではないと自分に言い聞かせている。

これはヨーコに教えてもらったんだ。僕ひとりでは対処できなかっただろう。僕を諭すには女性の力が必要だったんだ。つまりそういうことさ。ヨーコはいつも「大丈夫、大丈夫」と言ってくれた。自分の昔の写真を見ると、マーロン・ブランド的な面と、優しく女性的な性格を持つオスカー・ワイルドのような繊細な詩人の一面とで迷っていたことがわかる。迷いながらも、いつもマッチョな方を選択していた。女々しい部分を見せたら終わりだと思っていたんだ。

ー何が真実で何が偽りかと常に問い続けているあなたのやり方と関係しているのだと思いますが、あなたの作品には別の一面も見られます。例えば「Look at Me」や新曲の「Watching the Wheels」などで、「Strawberry Fields Forever」では「Nothing is real」と歌っています。

言葉を分解してみると「no thing is real」となり、つまりリアルなものなどない、ということにもなる。ヒンズー教や仏教で言うところの「イリュージョン」さ。羅生門だ。我々は分かっていながら錯覚の世界に生きている。その中で自分自身に向き合うのが一番難しい。

かつて世界は自分のために回っていると思っていたし、自分も世界の役に立っていると思っていた。保守主義者も社会主義者も、ファシストも共産主義者も、キリスト教徒もユダヤ教徒も自分に何らかの影響を与えていると思っていた。ティーンエイジャーにありがちな考え方だ。僕も40になって、そんな考え方はもうしない。意味がないとわかったからね。何があっても物事は進むし、自己満足に耽るのみ。そして自分の両親の行為を見て愕然とする。誰もが通る道だ。わざわざそんな道を通りたがるような人間のほとんどは、何もかもあるがまま受け入れて上手くやっている。しかし今起きていることに疑問を投げかけるような人はほとんどいない。僕は気づいたんだ。僕は自分自身にも他人に対しても責任があるということにね。僕も彼らと同類なんだ。区別はない。僕らは皆ひとつだ。その意味で僕は思うんだ。「僕もまたあんな風に振舞わなければならないのか。何がリアルなのか。我々の生きている幻はいったい何だろうか」とね。僕は日々対応しなければならない。タマネギの皮のようなものさ。

ー「Looking through a glass onion(訳註:ビートルズの曲「Glass Onion」の歌詞)」ですね。

正にそうだろう?

ここでヨーコが部屋に入ってきて、レコード・プラント・スタジオへ行く時間だと告げた。レコード・プラントはニューヨークのウエスト44番街にあった伝説のスタジオで、『Electric Ladyland(ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)』や『Born to Run(ブルース・スプリングスティーン )』などの作品がレコーディングされた場所だった。ジョンとヨーコはここ数週間、ヨーコの過去の作品のリミックスと彼女のニューシングル「Walking on Thin Ice」の仕上げにかかっていた。彼らは夜を徹して作業するつもりだったし、同行しない手はなかった。我々がダコタ・ハウスを出て迎えの車に乗り込んだ時、既に午後10時頃だった。30分ほどでスタジオに到着してメインスタジオへ入ると、我々は大音量に迎えられた。スピーカーからは誰にも真似できないヨーコの独特の声が溢れ出し、ジョンのギターが絡む。さらにヨーコが「Open your box/Open your trousers/Open your thighs/Open your legs. . . . Open your ears/Open your nose/Open, open, open, open」とシャウトする。その後6時間以上かけて、2人のエンジニアとプロデューサーのジャック・ダグラスはヨーコの作品を何曲か(「Open Your Box」、「Kiss Kiss Kiss」、「Every Man Has a Woman Who Loves Him」)リミックスした。その間ジョンと私は朝の4時までインタビューを続けたが、ヨーコはスタジオのソファで寝ていた。

ーヨーコはディスコ・アルバムを出すつもりなのでしょうか?

今やっていることがどうなっていくのか、まだはっきり言えない。ヨーコとの共同作業だからね。終わるまで誰もどうなるかわからない。でも僕らは確かにここで何曲か作っていて、最終的にはロックやディスコに仕上がるだろう。

ーあなた自身の新曲はどうでしょうか?

答えられないね。作っていないから(笑)。どうやってカムバックしたらいいのかわからなかったが、できる限りシンプルに、そして実験的な要素は排除しながら理想的な形で戻れたと思う。昔と同じようなやり方でできた方が嬉しいからね。「Starting Over」は、「エルヴィス=オービソン」と僕は呼んでいる。(ここでジョンは「Only the lonely/Know why I cry/Only the lonely」と、ロイ・オービソンの曲を口ずさんだ。)


ーあなたの楽曲にはスラップバック・エコーが使われることがあります。

1950年代からテープ・エコーが使われているが、僕も「Rock and Roll Music」以降のほとんどの作品で、同様のエコーを使ってきた。気に入っているんだ。僕のヴォーカルにもほとんど同じ処理をしている。『Nashville Skyline』のボブ・ディランのように、自分のルーツへの回帰さ。僕のルーツはナッシュヴィルでなくリヴァプールにあるから、昔聴いていたエルヴィス、ロイ・オービソン、ジーン・ヴィンセント、ジェリー・リー・ルイスらの作品に戻るのさ。時々「Revolution 9」のようなこともするが、突飛なアイディアは完全にヨーコに牛耳られている。

僕らの最初のライヴは、1969年のケンブリッジ大学だった。当初彼女は、何人かのジャズ・ミュージシャンとコンサートを行う予定だった。僕がビートルズを抜けてから初めてのライヴだった。アンプにギターをつないでフィードバック音を出し始めると、僕に気づいた人々が「彼が何をやっているんだ?」と怒り出した。「引っ込んでろ」という感じだった。そしてヨーコが盛り上げようとすると「何だあれは?」とブーイングを受けた。だから僕が彼女と一緒に出る時は、バックバンドの一員に徹してできるだけ目立たないようにしていた。ティナ・ターナーに対するアイク・ターナーのようなものさ。ただヨーコの場合は、アヴァンギャルドなティナという感じでちょっと違っていたけれどね。とにかくジャズ・ミュージシャンたちは怒っていた。

僕にこうあって欲しいという理想像を、誰もが持っている。でもそれは、両親の期待や社会の期待に応えようとするのと似ている。さらには、小さな部屋に籠ってタバコを吸いビールを飲みながらペンやタイプライターを使って夢や悪夢を見ている、いわゆる評論家たちも、僕に対する勝手な人物像を描いている。とにかく彼らは、自分は他人とは違い独立した世界に生きる人間だと思っているんだ。

ー何年も前に、あなたとヨーコがウィーンで大きなバッグに入って記者会見を開いたのを覚えています。

そうだね。僕らはバッグの中で日本のフォークソングを歌った。「中にいるのは本当にジョン・レノンかい?」ああ、僕だよ。「でもどうしたらあなたがジョンだとわかるのでしょう?」僕がそう言っているから。「なぜこのバッグから出てこないのですか?」出たくないから。「ここがハプスブルク家の宮殿だと知っていますか?」ここはホテルだと思っていたよ。「そうです、今はホテルです」。素晴らしいチョコレートケーキを出すウィーンのホテルだ。知っているよ。ところで、誰が好き好んでバッグの中に閉じ込められていると思う? 死にたくないからバッグを破って出なければ。

(ここでスタジオ・エンジニアがヨーコの新曲「Walking on Thin Ice」を流す。)

これを聴いてくれ、ジョナサン。この曲はとてもいいから、彼女のソロシングルにしようと思っているんだ。B面は僕の曲でね。最近、ヒット曲のB面を作るのが好きなんだ。ギターを弾くのも好きで、この曲でもバックでギターを弾いている。僕はいつでも喜んでそういった裏方になるし、ヨーコにはその価値がある。長い道のりだった。僕はそのことで争う気は全くない。

争いといえば、笑える話だが、ある時アンディ・ウォーホールがヨーコと僕にマディソン・スクエア・ガーデンで格闘して、それを撮影したいと言ってきたんだ。

ー冗談でしょう。あなた方に格闘しろと? 相撲のようなものですか?

そんな感じだね。ステージの上で「ラヴ&ピース」を表現させようとしたんだろうね。実現していたら素晴らしいものになったと思う。

ー公の場でのファイト以外で、あなたとヨーコの次の計画を教えてください。2人でツアーに出る予定などありませんか?

決まっていない。たぶんやるだろう。楽しみだ。僕ら2人には新しい曲がある。プラスティック・オノの「Dont Worry, Kyoko」、「Open Your Box」や「Why」などかつての作品をやるとすれば、彼女のヴォーカルと僕のギター、そしてベースとドラムというシンプルな構成になる。僕らも今風のバンドのようにやろうと思えばできるだろう。でも僕らには、スモークもリップスティックもフラッシュライトもない。とても気楽に楽しくできるだろう。笑いも取れるだろう。僕らは生まれ変わったロッカーさ。一から再出発しよう(starting over)としているんだ。

ー『キャプテン&テニール』のように、テレビの深夜番組もできるのではないでしょうか。

もちろん、ジョン&ヨーコでいつかできるだろう。よく2人で話し合っているよ。楽しいだろうね。でも時間はある。時間はたっぷりある。今はレコード・プラントにいて、ジョナサン・コットにまたローリングストーン誌のインタビューを受けている。表紙を飾るのが楽しみだ。あの1968年のように1981年を迎えられると思うと、ワクワクするよ。

ー「気をつけろ/お前のしたことには意味がある/いつかわからないが/お前はまたやろうとしている」(訳註:ボブ・ディランの楽曲「Subterranean Homesick Blues」の歌詞)

その通り。レノンかローリングストーン誌のどちらが先かだな。誰が長生きするかな。ライフ誌、タイム誌、ニューズウィーク誌、プレイボーイ誌、ルック誌…現実から目を逸らさないようにしよう。雑誌の浮き沈みは激しい。レコード会社の幹部も出入りが激しい。レコード会社や映画プロデューサーも、アーティストも同じだ。何たる人生!

『Double Fantasy』の前に出したのが『Rock N Roll』で、アルバムカバーには革のジャケットを着てハンブルクで撮影した僕の写真が使われた。レコーディングの終盤にフィル・スペクターが僕に「Just Because」を歌わせたが、実はあまりよく知らない曲だった。そのほかの曲はティーンエイジャーの頃から慣れ親しんだ楽曲だったが、この曲だけはコツがつかめなかった。最後はすぐ隣でミキシング作業をしていたが、それも終わりに近づいた時、「これでレコード・プラントともおさらばだ」と叫んだ。しかし内心は「本当に別れを告げてもいいのだろうか?」とも思っていた。当時はそんなことを考えたこともなかった。ヨーコとは別居中だったし、子どももまだいない頃だった。しかしどこからか「全てにサヨナラしてもいいのか?」という声が聴こえていた。

何となく虫の知らせのような感じだった。その後数年経ってから、本当に僕はレコーディングを止めたんだな、と実感した。アルバムのカバー写真が頭に浮かんだ。1961年にハンブルクで撮った、革のジャケットを着て壁にもたれかかった写真。「僕が『Be-Bop-A-Lula』でスタートした場所で終わるのだろうか?」と思った。初めてポールに出会った日、僕はステージで「Be-Bop-A-Lula」を歌った。いろいろなビートルズ本で写真が見られるが、僕はチェック柄のシャツを着てアコースティックギターを抱え、「Be-Bop-A-Lula」を歌っている。アルバム『Rock N Roll』と同じだ。

ささいなことだが、意識したことはなかった。かなり後になってから、思い返すようになったんだ。まるで夢でも見るような感じで、虫の知らせのようでもあった。ただ、意識的なものでもなかった。先の計画も目的もなかったが、「ハンブルク時代の写真」と「Be-Bop-A-Lula」は、レコード・プラントへの別れを意味するのか、とも思うようになった。アルバム『Rock N Roll』の最後の曲を終えた時から、本格的に別れを告げることを考え出したんだ。そして喜んでけりをつけた。それがちょうどアルバムの最後だった。

ある時イギリスで占い師が、僕はそのうち国外で暮らすだろうと予言したんだ。ずっと忘れていたが、僕がアメリカの入国管理局ともめている最中に思い出した。「僕はここで何をやっているんだ? なぜこんなことをしているんだろう?」と思った。僕はここに住むつもりはなかった。たまたまここにいるだけだ。荷造りもせず何もかもイギリスの家に残してきたではないか。僕らはただ短期滞在でここにいるんだと思ったが、結局戻ることはなかった。

裁判中は、アメリカにふさわしくないだとか共産主義者だとか言われた。「何のためにやっているんだろう」と思ったが、そこで「いつかあなたは海外に住むでしょう」というロンドンの占い師の予言を思い出した。僕が移住するのは税金対策だろうと言われたが、そうではない。僕には何のメリットもなかったし、イギリスを離れた時に全てを失ってしまった。だから僕にはイギリスを離れる理由などなかったのさ。南フランスやマルタやスペイン、ポルトガルの太陽を求めて本国を脱出したい、などと願う多くのイギリス人とは違うんだ。ジョージ(ハリスン)はいつも「みんなで太陽の下で暮らそう」と言っていた。

ー「Here Comes the Sun」ですね。

そう。彼は今もイギリスに住んでいるから、いつも太陽に飢えているんだ。そこで急に思い出したんだ。「何と、あの占い師の予言は当たっていた!」ってね。言われた時は「冗談だろ?」って思っていたけれど。

時々思うことがある。いや、本当に不思議なのは、僕らは皆夢を実現しているが、常に選択肢がある。でも、前もって決まっている宿命というものはどれほどあるのだろうか? いつも分岐点があって、どちらの道も等しく運命付けられているのだろうか? 或いは何百という選択肢から選べる可能性もある。しかし選択できるのはひとつだ。とても不思議だ、と時々感じる。

いいインタビューの締めだった。グッバイ、またね。

>>関連記事:ローリングストーン誌に見るビートルズ年代史
本インタビューを行ったジョナサン・コットは、1968年、ローリングストーン誌によるジョン・レノンとの初インタビューも担当した。
本記事は、米本誌2010年12月23日号に掲載されたものです。

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