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なぜ北朝鮮は日本人を拉致したのか?「工作員養成機関への入学話」「東大生と仲良くなれと言われ…」帰国した被害者が証言した無謀すぎる計画「日本人をスパイにする意図があった」

集英社オンライン / 2024年2月24日 18時1分

北朝鮮による日本人拉致は、主に1970年代から1980年代にかけて行われた。2002年の日朝首脳会談で北朝鮮は初めて拉致の事実を認め、その目的に関して「工作員への日本語教育のため」「日本人の身分を使い韓国に潜入するため」と説明。しかし、帰国した被害者らの証言によると、その計画はより現実味のない無謀なものだった。『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

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日本人拉致の目的とは?帰国した被害者の証言

1978年7月、福井県小浜市でデート中に拉致された地村保志さん・富貴恵さん夫妻は、工作船で北朝鮮北東部の清津(チョンジン)に到着後、丘の上の「招待所」と呼ばれる隔離された施設で一晩過ごし、寝台列車で平壌に送られた。2人は引き離され、保志さんはまず、平壌市内の「円興里(ウォンフンリ)招待所」で1カ月間、金日成(キムイルソン)国家主席の著書や主体思想などの本を読むことを強要された。



保志さんは次に、朝鮮労働党対外連絡部に所属する平壌郊外の「順安(スナン)招待所」に移された。対外連絡部は、かつて存在した対南工作機関だ。9月ごろから朝鮮語学習をスタートさせ、11月からは蓮池薫さんとの共同生活が始まった。特に担当の教師がいるわけでもなく、独学で朝鮮語を覚えていった。当時の北朝鮮は卓球ブームが起きており、息抜きのためによく卓球をしていたという。

一方、富貴恵さんは平壌市中心部の「牡丹峰(モランボン)招待所」に送られた。最初は、映画や革命歌劇の鑑賞、革命史跡や博物館などの社会見学に連れて行かれたという。9月初めに、同じく拉致被害者の田口八重子さんとの共同生活が始まった。

「工作に使うために拉致してきたから、こちらに来た経緯、本名や生年月日は言うな」

指導員からはこう命令された。当初はお互いに話しかけることを控えたが、次第に拉致された状況や日本にいる家族のことなどを打ち明けるようになったという。富貴恵さんも9月から朝鮮語の学習が始まった。

北朝鮮・平壌市内=1990年9月25日【写真は『北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より出典・©︎朝日新聞社】

翌1979年1月、富貴恵さんは田口さんと一緒に「円興里招待所」に移った。2人は共同生活をしながら、朝鮮語を学んでいった。思想教育のために学校に通わせるという話もあったそうだが、立ち消えになったという。富貴恵さんは「金正日政治軍事大学だったのだろう」と回想している。

金正日政治軍事大学とは、平壌にある工作員養成機関のことだ。卒業生は韓国や日本、中国、欧州各国に身分を隠して潜入し、様々な工作活動に従事しているとされる。

その後、11月に保志さんと富貴恵さんは平壌市郊外の「忠龍里(チュンチョンリ)招待所」に移され、北朝鮮当局に勧められて結婚した。以降、日本への帰国が実現するまで、2人は一緒に生活し、再び引き離されるようなことはなかった。当局の指示で、保志さんは同じ招待所に住む工作員数人に日本語を教えることになった。

日本国内で次々発生「アベック失踪事件」

富貴恵さんを思想教育するために学校に入学させるという計画はなぜ、立ち消えになったのか。保志さんは、日本政府の聞き取り調査に対して、次のように証言している。

「拉致直後の1979年1月ごろ、自分たちは学校に送られて、工作員としての教育を受けるということだった。短期の訓練で日本に送り返すということかと思った。しかし、4月ごろになり、その話が突然取りやめになった。日本国内で自分たちの失踪が問題となり、工作員として使えなくなってしまったらしい」

蓮池さん夫妻が北朝鮮の工作員に拉致された新潟県柏崎市の中央海岸(©︎朝日新聞社)

福井県小浜市で保志さんと富貴恵さんが連れ去られた1978年7月は、新潟県柏崎市で蓮池薫さんと祐木子さんが、8月には鹿児島県日置郡(当時)で市川修一さんと増元るみ子さんが拉致されている。この3件の事件直後には、富山県高岡市で海水浴から戻る途中だった20代のカップルが複数の男に襲われる事件も起きた。

2人はさるぐつわをされるなど身体を拘束されて袋に入れられたが、たまたま近所の人が通りかかったことから犯行グループが逃走。事件は未遂に終わっている。当時の警察は捜査により、さるぐつわに使われたゴムが国内メーカー製ではないことや、2人を襲った男たちの話し方などから、犯人は日本人ではないと判断していた。警察当局では当時、この事件や3件の「アベック失踪事件」は、北朝鮮の工作機関が関与しているのではないかとの疑いを持っていた。

一方、1977年11月10日付の朝日新聞朝刊の社会面には、約2カ月前に石川県能都町(現・能登町)の宇出津海岸で失踪した東京都三鷹市役所の警備員、久米裕さんについて、次のような記事が載った。当時からすでに、失踪事案に北朝鮮の関与を疑う報道があったのだ。こうしたことはあまり知られていないが、大事なことなのでほぼ全文を紹介する。久米さんは後に、政府により拉致被害者に認定された。

久米裕さん失踪に“北朝鮮の関与”報じた記事

《東京都三鷹市役所の警備員(民間会社)が9月中旬、突然姿を消したため、警視庁公安部などで調べたところ、この警備員はすでに、石川県・能登半島沖から、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作船で密出国していた事実が9日明らかになった。

この警備員は、国内で北朝鮮工作員によって懐柔されたらしく、送り出しに関係した工作補助員1人が、これまでに石川県警に逮捕されている。在日韓国人が工作されて北朝鮮に渡ったケースはこれまでにもあるが、日本人が懐柔されて渡った事実が明らかになったのは初めてで、公安当局は、強い衝撃を受けている。

この警備員は、保谷(ほうや)市内に住む久米豊〔裕〕さん(51)。公安当局や三鷹市役所などの調べでは、久米さんはさる9月、「別れた女と復縁する」との理由で、17日から22日まで6日間の有給休暇をとり、姿を消した。

久米さんの密出国がわかったのは、朝鮮慶尚北道慶山郡出身で、東京都田無市内に住む建設会社社長A(38)の逮捕から。公安当局の調べでは、Aは9月19日、石川県鳳至(ふげし)郡能都町宇出津の海岸や同海岸近くの旅館で、不審な動きをみせた。能都署がAを任意同行して、外国人登録証の提示を求めたところ、拒んだため、外国人登録法違反(不提示)の現行犯で逮捕した。

海上保安庁の巡視船の追跡を振り切り、高速で逃げる北朝鮮の不審船=1985年、鹿児島県奄美大島の北西約320キロの東シナ海【写真は『北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より出典・©︎朝日新聞社】

同署が能登半島に来た目的についてAを追及したところ「相棒は海岸で急に姿が見えなくなった」などと自供した。Aのいう「相棒」についてさらに事情を聴いたところこの「相棒」とは警備員の久米さんで、Aは久米さんを宇出津海岸の沖から北朝鮮の工作船に乗せたことを自供した。

このためAは出入国管理令違反(密出国ほう助)の疑いで再逮捕された。また、同県警がAの自宅を同容疑で家宅捜索した結果、乱数表など工作員に必要なスパイの「七つ道具」が出てきたという。

公安当局は、久米さんがAとどういうふうに関係をもったのかはっきりつかんでいないが、Aが金貸しをしていたとの事実をつきとめており、金に困った久米さんが借りているうち、借金がふくれあがり、Aにとりこまれた、との疑いを強くしている。

警視庁や石川県警など公安当局は、なぜ日本人を北朝鮮に送り出す必要があったのか、などについても、詳しく調べているが、久米さん自身を工作員として使おうとしたのか、あるいは久米さんの密出国がわからなければ、北朝鮮の工作員が久米さんになりすまし、わが国での情報工作や韓国への密入国なども可能となるわけで、こうしたねらいから久米さんをあえて工作したのではないか、と推測している。また、Aの周辺には日本人を工作して北朝鮮へ送り出す非公然組織が存在しているとみて捜査を続けている》

日本国内の報道で断念「潜入工作員」養成計画

日本ではこの当時、北朝鮮が日本人を拉致したという事実を直接伝える報道はなかった。久米さんの動向を伝える記事も、工作員にそそのかされて自らの意思で北朝鮮に渡ったのではないかとの印象を与えるものだった。

だが、地村さんが日本政府に証言した内容からは、北朝鮮が当時、日本で相次ぐアベック失踪事件や久米さんに関する報道を重視していたことがうかがえる。拉致した日本人被害者を洗脳し、工作員に育て上げて日本や韓国に潜入させるという計画はあまりに無謀だということにようやく気付いたのではないかと推察される。

拉致被害者が24年ぶりに一時帰国。チャーター機から降りる、前列右から地村保志さん、地村富貴恵さん、2列目右から蓮池薫さん、蓮池祐木子さん、その左奥は曽我ひとみさん=2002年10月15日、羽田空港(©︎朝日新聞社)

蓮池薫さんたちも、日本政府に同じような証言をしている。

薫さんと祐木子さんは1978年7月31日に新潟県柏崎市の中央海岸で拉致され、北朝鮮の工作船により一晩かけて清津に連れて行かれた。清津には、日本に工作員を送り込むための工作船を運用する朝鮮労働党作戦部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の連絡所が置かれていた。清津に着いてからはそれぞれ別の招待所に送られた。薫さんは襲われた際に顔を殴られており、目のあたりが腫れ上がっていた。清津の招待所ではまず、その治療が行われ、正面と横からの証明写真も撮られたという。

薫さんは8月上旬に、平壌郊外にある平壌国際空港近くの「順安招待所」に移された。そこでは、金日成氏の生家訪問や映画鑑賞など北朝鮮という国家を理解するための「現実体験」や朝鮮語の勉強が始まった。

急性肝炎にかかり、「915病院」という工作員の専用病院に2カ月ほど入院し、11月に再び順安招待所に戻された。この時に地村保志さんと出会い、1年間にわたって現実体験や朝鮮語の勉強をしながら共同生活を送った。朝鮮語は先生から教わるわけでもなく、金日成総合大学の留学生用のテキストを使って独学で覚えていったという。

1979年11月に保志さんと別れ、平壌市内の「龍城(リョンソン)招待所」に移された。ここでは半年近く過ごし、日本語が上手で中国語も少し話すことができる工作員と身ぶり手ぶりを交えながら意思疎通を図った。一緒に食事をしたり、映画館に行ったりしたこともあったという。この工作員は「ハン」という名前で、ベトナム戦争では従軍記者をやっていたという。薫さんは日本政府にこう証言している。

「北朝鮮の工作員は2つも3つも名前を持っているので、どれが本当の名前なのかはわからない。公民として登録されている名前もよく変わるから、なおさら訳がわからない」

蓮池薫さん証言「我々をスパイにしようと…」

1980年5月、朝鮮労働党対外情報調査部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の拉致担当部署の「課長」が薫さんを訪ねてきた。対外情報調査部は韓国をはじめ海外での情報収集やスパイ活動、テロなどの工作活動を担い、拉致被害者が住む招待所も運営していた。

課長は「一緒に来た女性と結婚しないか」と持ちかけてきた。祐木子さんのことだ。薫さんと祐木子さんは龍城招待所内にある「5号特閣」と呼ばれる、招待所よりも規模が大きく施設もホテル並みの施設で結婚式を挙げ、新婚生活に入った。

祐木子さんは薫さんと再会し、結婚するまでの間、やはり薫さんと似たような生活を送っていた。

工作船で清津に到着すると、港の見える丘の上の招待所に連れて行かれた。そこで数日間滞在した後、同じ清津市内の豪華なホテル並みの招待所に移された。拉致されてから1カ月も立たないうちに、薫さんと同じ平壌郊外の「順安招待所」に移され、数カ月過ごした後に今度は平壌中心部の招待所に送られた。そこで指導員に引き合わされたのが増元るみ子さんだった。祐木子さんと増元さんは共同生活をしながら、朝鮮語の勉強を始めた。

その後、1979年2月ごろに2人とも平壌市中心部に近い「レンチョン招待所」に、夏には再び「順安招待所」に移り、就寝時間以外は勉強や食事も一緒にしたという。だが、2人の共同生活が長く続くことはなかった。10月下旬に引き離され、祐木子さんは平壌市郊外の「東北里(トンブクリ)招待所」で半年以上生活した後、1980年5月に龍城招待所に移り薫さんと結婚した。

金日成広場にある金日成主席と金正日総書記の肖像画 写真/Shutterstock.

北朝鮮当局はなぜ、拉致直後に薫さんと祐木子さんを引き離して別々の施設に収容したのだろうか。薫さんは結婚するまでの期間を振り返り、日本政府に対してこう証言している。

「北朝鮮は当初、我々を工作員として使おうとしていたのだろう。実際にそういう雰囲気はあったし、指導員からは『日本に行って東大生と仲良くなれ』と言われていた。自分は北朝鮮に行った当初は反抗的であり、『東大生は自分など相手にしない』と反発したり、日記に指導員の気に入らない言動を書いたりしていたので、工作員としては使えないと判断したのではないか。当初、自分たちを別々にしたのも、それぞれに朝鮮人の工作員をパートナー兼監視役としてつけて、スパイにしようとの意図があったと思う」

文/鈴木拓也
構成/集英社オンライン編集部ニュース班
写真/朝日新聞社、(モノクロ写真)書籍より出典

『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』

鈴木 拓也

2024年2月20日発売

1,870円(税込)

240ページ

ISBN:

978-4022519665

北朝鮮との水面下の接触は続いていた!
日本人被害者5人の帰国から21年。交渉は停滞したままと思われていた2023年、政府高官が東南アジアのある都市に極秘渡航し、朝鮮労働党関係者と接触していた。
数年前に外務省と北朝鮮の秘密警察「国家安全保衛部」とのパイプが途絶えた後、内閣官房の関係者が第三国で北朝鮮側と断続的に接触し、政府間協議の本格的な再開への意思を探り合ってきたのだ。岸田首相の「ハイレベル協議」発言と北朝鮮の外務次官談話は、5月の日朝接触とタイミングが重なる。
「拉致問題は解決済み」との態度を変えない一方、米韓と対立する北朝鮮は日本との対話を探っている。2024年1月1日に起きた能登半島地震被害を受け、北朝鮮の金正恩書記長が岸田首相に見舞いの電報を送った。これは一体何を意味するのか?
蓮池薫氏、田中均氏らキーパーソンたちが語る交渉の舞台裏と拉致問題の行方を追ったノンフィクション。
解説=斎木昭隆・元外務省事務次官(2002年と2004年、政府調査団として訪朝)

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