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大学の教養教育を「資本の論理」からどう守るか 加速する資本主義社会における「知識人の使命」

東洋経済オンライン / 2024年3月31日 11時0分

斎藤:それは堀内さんのおっしゃる通りで、資本主義がありとあらゆるものを商品化する中で、儲けを出さないものは社会のお荷物であるというような考え方が、本来儲けを出すことがきわめて難しいものについても当たり前のように当てはめられ、要らないものはどんどん切り捨てられるような方向に進んでいます。

大学についても同じで、研究とお金儲けが一定程度両立する場合もありますが、研究すべてがそういうものではありません。ところが、儲けの論理が国立大学にまでもどんどん入ってきている。大学10兆円ファンドの支援対象の公募について、東大と京大は落ち、東北大学だけが選ばれたということがニュースになりましたが、支援を受けるためには条件があり、事業を年平均3%拡大することや効率的な改革のためにトップダウンの理事会などさまざまな委員会を設置することが求められています。正直、めちゃくちゃな話です。

というのも、これらの条件を受け入れた瞬間、成長の論理を大学の中にも持ち込むことになってしまいます。成長の論理に適応できる人だけが生き残れるような大学になっていき、雇われる人たちも効率よく3年で論文を書けるようなテーマを見つけて、そこそこのジャーナルにうまく載せられるような器用な人たちだけになってしまうことは、いろいろな弊害を生むことになるでしょう。

本来、教養や学問(特に人文知)というものは非常にスローであり、資本主義的な効率とは相容れないものです。昨今の教養ブームが行き過ぎたビジネスへの反省という意味でも興味深いのですが、行き過ぎた資本主義そのものを見直さずに教養教育だけを掲げても、結局コスパよく教養を身に付けようというファスト教養的なものに矮小化され、マニュアル化していくだけでしょう。

大学は「最後の知の拠点」であるべき

行き過ぎた資本の論理については、教員だけではなく学生にも言えることです。私は、経営共創基盤グループ会長の冨山和彦さんが提唱している、大学をグローバル型とローカル型に分け国際競争力のある大学以外は地域特化型の職業訓練校にすべきという話には批判的です。ローカル型大学の学生たちは資格を取ればいいのだから教養は要らないということになっていけば、昨今の文学部不要論のようなものに拍車をかけることになる。学生の側も資格を取れればいいという気持ちで大学に来るようになってしまえば、最後の知の拠点としての教養教育も骨抜きになってしまいます。その先にあるのは、超格差社会です。

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