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「結局、新選組はコンプレックスの塊なんです」浅田次郎と磯田道史が語る斎藤一と西郷隆盛の“本当の姿”

CREA WEB / 2024年2月29日 6時0分

磯田道史が「私一人ではわからない日本史の謎」について、その道の達人と日本史の論賛をした対話集が『磯田道史と日本史を語ろう』だ。磯田さんが「読者諸氏と、この至福の時間の雰囲気を、この書物でともにしたい」と話す同書より、『一刀斎夢録』の著者の浅田次郎さんと新選組三番隊隊長・斎藤一について語り合った対談の一部を抜粋して紹介する。


斎藤一の会津藩への憧れ

磯田 斎藤一による龍馬暗殺は最初の見せ場ですが、その後、斎藤は鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争に幕府軍の一員として参加していきます。甲府、白河と敗走を重ねていきますが、斎藤は会津藩が降服した後、新選組を離れて会津藩にとどまります。土方歳三らとともに蝦夷には向かわなかった。しかも、明治に入って、会津藩が潰されると、家名存続のため下北半島に設置された斗南(となみ)藩にまで同行しています。

 そのような行動を斎藤にとらせたのは、会津藩の武士に対する強烈な憧れだったと思います。それは斎藤だけのものではなくて、江戸時代の武士は、西の彦根藩と北の会津藩の武士を、幕府を守るための美しい侍らしい侍と考えて仰ぎ見ていました。

 会津藩が幕末に異様な輝きを放ったのは、田中玄宰(はるなか)という天才家老が「日新館」という学校を作り、幼少のころから徹底的なエリート教育を行なったからです。たとえば、当時の最高学府である江戸の昌平坂学問所には、全国から秀才が集められていましたが、そこで首席にあたる学寮の「舎長」を会津藩は四人も輩出しました。そのような藩は他にありません。


磯田道史さん ©文藝春秋

 斎藤は明治維新後、会津藩大目付だった高木小十郎の娘と結婚し、息子を会津藩家老で松平容保(かたもり)に仕えた田中土佐(玄清[はるきよ])の孫娘と結婚させています。田中土佐は会津藩を会津藩たらしめた田中玄宰の子孫です。玄宰の係累になったとき、おそらく斎藤は何事かを成し遂げたと思ったでしょう。

 斎藤が警視庁に入るときに出した履歴書が残っていますが、「福島県士族」と書いてある下に「旧会津藩」と自ら補足してありました。しかし、明治政府は旧会津藩士を国にとっての危険分子とみなしていました。

浅田 会津藩を滅ぼすことで、新政府ができたのだから、当然でしょう。

磯田 それがわかっているのに、斎藤一はわざわざ記入している。普通は「〇〇県士族」までしか書かれていなくて、「旧水戸藩」とか「旧岡山藩」なんて書きません。きっと、会津に召し抱えられていたことに誇りを持っていたのでしょう。たった四文字の言葉に語られなかった彼の熱い想いを感じました。

 ですから、『一刀斎夢録』は足軽の息子が人を斬ることで身分体制を覆し、憧れの会津武士になる物語でもあると思いました。『壬生義士伝』『輪違屋糸里』、そして今回の『一刀斎夢録』と、浅田さんの新選組三部作は、いずれも武士ではなかった人が本物以上の武士になっていく話ですね。

「結局、新選組というのは、コンプレックスの塊なんですよ」

浅田 結局、新選組というのは、コンプレックスの塊なんですよ。学者が研究対象にしないのもよくわかります。歴史的な存在意義はないんです。俗に池田屋騒動が維新を十年遅らせたというけれども、そんなのはファンの身びいきですよ。では、あの人たちは何だったのかというと、何者でもない(笑)。それが小説家の心をくすぐるわけです。

磯田 何者でもないけれど、制服も奇抜で、新選組と同じく京都を警備していた見廻組とは比べ物にならないくらい目立つ集団だった。そして、何よりも恐れられていた。物語の主役にしたくなるのも無理はありません。


浅田次郎さん ©文藝春秋

浅田 見廻組は旗本や御家人の次男坊、三男坊で構成されていて、武士のスタイルとは、どういうものかを最初から知っているから、お行儀がよくて、地味だったと思うんです。

 それに対して、新選組は近藤勇をはじめ、武士以外の身分の出身者が多いから、既成の武士のスタイルに捉われず、自分をスタイリッシュに演出することができたのでしょう。大丸に特注した羽織を着て、高い下駄を履き、鉄扇を持って闊歩する、というスタイルの源は、芹沢鴨の趣味だったと僕は、にらんでいます。近藤は朴訥な道場主で、土方ははっきりいって田舎者ですから、目立ちたがりで、お洒落な芹沢のスタイルにすごく憧れたでしょう。しかも、芹沢は当時、名の知れた尊皇攘夷の志士で、有名人だったから、余計に憧れが募った。

 近藤らが芹沢を斬ったときの畏(おそ)れも、その強い憧れから来ていると思います。だから、新選組はそれ以降も芹沢の美学に祟(たた)られていって、どんどん自分たちをかっこいいものに過剰に演出せずにはいられなかったと思うのです。

磯田 『一刀斎夢録』にも書かれていますが、芹沢の惨殺後、新選組内部の抗争も陰惨になっていきますね。

浅田 斎藤一もそもそも会津藩の密偵だった、という説をいう人もいるんですよ。最後の会津藩主である松平容保には仲人をしてもらうほど可愛がられ、容保だけでなく、後の代の方々も非常に尊敬して忠誠を尽くしている。その主従関係の濃さが根拠とされています。あながち荒唐無稽とは言い切れないですよね。

磯田 ええ。新選組は会津藩の指揮下にありますから、内部事情まで知りたいと思って、斎藤を使った可能性はあります。会津藩がよく密偵を活用していたことは様々な史料から明らかなので、考えられないことはありません。おそらく近藤たちに知られずに新選組の情報を会津藩の公用人・手代木勝任(てしろぎかつごう)(直右衛門[すぐえもん])らに知らせるぐらいのことはしていたかもしれません。伊東甲子太郎のところからこっそり新選組の屯所へ戻ってくるときも、斎藤はホームレスに変装していたという話もある。どうも動きが密偵風です。どこで習得したのかは、わからないのですが。

西南戦争は「大芝居」だった

浅田 密偵だったとしても、元々、会津藩士だったわけではないと思います。言葉なんかでばれてしまうから。

磯田 新選組に入ってから、だんだん密偵の活動を始めたのではないでしょうか。近藤勇が行きすぎだ、というのを永倉新八たちと一緒に松平容保に対して直訴するあたりでは、すでにおそらくそのような役割を担っていた可能性があると思います。

浅田 本当に謎の人ですね。唯一未開拓の新選組の大物だから、書いてみたかった。すごく無口な人だったようですね。

磯田 秘密が漏れないから、斎藤一は暗殺や密偵にはもってこいですよ。

浅田 近藤勇はいつも斎藤一を連れて歩いていて、非常に可愛がっていたようです。今でいうSPというかボディガードにも向いていた人だったのでしょう。


浅田次郎さん ©文藝春秋

磯田 『一刀斎夢録』の後半の読みどころは、斎藤一が警視庁の抜刀隊として従軍する西南戦争ですね。小説のなかで展開される、浅田さんの西南戦争論に、私は非常に頷きました。西南戦争は、大久保利通と西郷隆盛の二人が台本を書いて、日本軍を近代化させ、士族の反乱を終わらせるために打った「大芝居」だと書かれています。

浅田 斎藤一が小説のなかでいうように、西郷隆盛と大久保利通が征韓論ごときで袂(たもと)を分かつはずがないと思うんです。

磯田 私も「大芝居」は明確な謀議はないにしても、あうんの呼吸というか、「未必の故意」としては、あったのではないかと思います。あまり学者はそういうことを言えないのですが、あんな戦争、西郷だって成功するとは思ってないでしょう。なのになぜやったのか。

浅田 西郷が士族の不満を汲み取って反乱を起こそうと思っているのであれば、1874年に起きた佐賀の乱に呼応するのが普通です。

磯田 いざ蜂起するとなったら、西郷は様々な謀略をめぐらせて、同時多発的に士族反乱を起こすはずです。ところが、西郷は、他藩を巻き込む行動をとらず、桐野利秋が下手な戦略を打っても何の口出しもせず、そのまま引きずられていく。

浅田 あれは西郷の指揮した戦争ではないですよ。桐野の戦争です。

西郷がわからねば西南戦争もわからぬ

磯田 昔の西郷だったら、熊本城なんかでもたもたしているはずがありません。九州で戦争を起こすときはまず関門海峡を押さえるのが、戦国時代からの常識です。だから、自衛隊も小倉と久留米にいまだに連隊駐屯地を置いています。熊本は何らの戦略要地ではない。それなのに、西郷は熊本城を落とすことにずるずると時間をかけている。自分が士族と一緒に自殺をして、徹底して鎮圧されれば、その後は国民皆兵の近代軍の創設が行なわれることをだいたい予想していたと思います。

 西南戦争をやっているうちに、全国の不平士族が次々と反乱を起こして、大久保も鎮圧できなくなり、もう一度、西郷と交渉のテーブルにつく、というシナリオも少しは考えていたかもしれません。でも、客観的に考えれば、その可能性は限りなくゼロに近かった。大久保は西郷の意図を酌んでいたかどうかわかりませんが、西郷にとっての西南戦争は、結果を見通した上での自殺的行為であったと思います。

浅田 僕は西郷が最後に立てこもった城山を何度も見に行っているんですけど、花道みたいなんですよ。残された500人くらいが立てこもって、最後みんなであそこを駆け下りて散っていくわけでしょう。西郷が死に場所を決めて言った「ここらでよか」という有名な言葉は、大久保に対して、うまく芝居はできたろう、と呼びかけているように僕には聞こえるんです。

 反逆者なのに銅像が建てられ、英雄化されるのが早すぎるのも、不可解です。不思議な人ですよ、西郷さんは。

磯田 西郷は餅のような男であるというのが、私にはいちばんしっくりくるんです。お餅って、二つ並べて焼いていると、いつの間にかひっついて一緒になってしまう。どうして西郷はあんな戦争に担がれてしまったのかと考えると、西郷は近くにいる人間と感情的に一体化してしまうからですね。たとえば友人の月照と一緒に入水自殺を試みて、自分だけ生き残ってしまう。武士だったら後を追いそうなものですが、再び死のうとはせずに、また何か仕事をしはじめる。そのような大いなる矛盾を抱えたところが西郷の大きさであり、ある種、理解に苦しむところですよね。

 西郷はわからぬ。西郷がわからねば西南戦争もわからぬというのが、歴史学者のみならず、小説家やあらゆる日本の歴史が好きな人たちを悩ませている課題かもしれません。薩摩へ行くと、大久保利通の悪口を言う人はものすごく多い。一方で、あれだけの若者たちを道連れにして死なせているのに、西郷を恨む人はほんとにいないんですよ。

浅田 なんでそんなに尊敬されているんだろうね。本物の西郷は見たことない人がほとんどだと思いますよ。僕がタイムマシンに乗っていちばん会いたい人です。この目でどういう人なのか、見極めてみたいですね。

浅田次郎

1951年生まれ。作家。『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、『お腹召しませ』で司馬遼太郎賞など受賞多数。2015年紫綬褒章受賞。

磯田道史

1970年岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。国際日本文化研究センター教授。著書に『徳川家康 弱者の戦略』『感染症の日本史』(ともに文春新書)、『無私の日本人』(文春文庫)、『日本史を暴く』(中公新書)、『武士の家計簿』(新潮新書)、『近世大名家臣団の社会構造』(文春学藝ライブラリー)など多数。

(初出:「幕末最強の刺客を語る」『文藝春秋』2011年2月号)

文=磯田道史

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