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中田英寿の才能に期待も…「10番は簡単ではなかった」 伊記者が回想、セリエAで苦境に直面【現地発】

FOOTBALL ZONE / 2024年5月11日 7時30分

■イタリア時代に取材歴のある現地記者を直撃

 日本サッカー界はこれまで数々の名プレーヤーを輩出してきた。日本代表や欧州クラブで輝かしい実績を残した中田英寿氏はその1人。ワールドカップ3大会に出場したレジェンドは早くから世界に目を向け、21歳でイタリア1部セリエAへの挑戦を決断。その後、ワールドクラスの選手へと成長を遂げた。

 2006年夏に29歳で現役を引退した「孤高の天才」は、他者の目にどう映ったか。「FOOTBALL ZONE」ではイタリア時代に取材歴のある「トゥット・スポルト」紙のブルネッラ・チュッリーニ記者に改めて振り返ってもらった。

   ◇   ◇   ◇   

――ヨーロッパでは多くの日本人選手がプレーしているが、中田英寿に抱く印象は?

「日本を代表する象徴的な選手。当時は日本代表の最も重要な選手の1人だった、ローマでは彼がスクデット獲得を可能にする決定弾を決めた。フィオレンティーナではプレーした期間は短かった。

 中田がフィオレンティーナに移籍した2004-05シーズン、マリオ・チェッキゴーリ会長のフィオレンティーナは倒産後、セリエCからセリエAに昇格したばかりで複雑な時期だった。中田はデリケートな時期に入団したので、その影響を受けたと思う。

 当時監督も変わったし、そのことは中田のためはならなかった。(リーグ戦で)20試合中14試合スタメンで出場も、ゴールを決めていない。ロベルト・バッジョなどファンタシスタの伝統を持つ最強リーグであるセリエAの中で、ナンバー10(10番)を身につけてプレーするのは簡単なことではなかったと思う。

 中田は多くの才能を持っていたが、彼の持っている力を最大限に発揮できずにフィオレンティーナから出て行った。

 ディエゴ・デッラ・バッレ会長は、サッカー面での目標がまずあったが、加えて日本への商業進出も狙っていた。中田の獲得は、セリエA復帰後のビッグプレーヤー獲得の1人だった。サポーターやファンの期待も大きかった」

 当時日本人報道陣たちが何人も日本から来ていて、記者席は賑やかだったことも鮮やかな印象として残っている」


「トゥット・スポルト」紙のブルネッラ・チュッリーニ記者【写真:倉石千種】

――中田へ取材したなかでの思い出は? 

「私たちには、コメントを残さなかった。プライベートを大事にする人で、オープンではなかった。でも彼のことはよく覚えている。礼儀正しくて、賢かった。サッカーだけではなく、色々なことに興味を持っていてファッションやアートの仕事もしていた。

 29歳という若さで現役を退いてしまったけれど、サッカー選手として、フィオレンティーナでは浮いた話、スキャンダルもなく、真面目な選手だった。ただ、サッカーだけに生きているのではなかった。色々な興味、関心があった。そこがほかの選手たちと違っていて優雅で、ファッショナブル、颯爽としていた。とてもオシャレで、格好良く、日の打ちどころがなかった、常にバシッときめていた」

――特別な選手だった?

「日本人選手がセリエAでプレーできることを証明し、ほかの日本人選手たちへの道を開けた。デッラ・ヴァッレ会長は中田英寿がクラブを去ったあとも、何年かはほかの日本人選手を獲得しようとしていた。日本代表の選手たちを追いかけていた。それは中田が選手としても人間としても素晴らしかったからだ」(倉石千種 / Chigusa Kuraishi)

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