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2G1Aオールドファームは「神様が味方してくれた」。同じ“41”から始まった静学時代も振り返るMF旗手怜央(セルティック)単独インタビュー

ゲキサカ / 2022年5月26日 7時0分

——その中でゴールやアシストという目に見える結果から遠ざかる時期も続きました。チームをよりよく動かすという点で取り組んでいるような印象を受けましたが、そうした時期はどんな試行錯誤をしていたのでしょうか。
「攻撃の選手なので結果が出ない時はすごく苦しいですし、もちろんゴールを決められない、アシストできないというところはモヤモヤした部分はありました。ただ、それ以外にも守備の部分とか、攻撃で前の選手を動かすとか、ゲームを落ち着かせるとか、できることが多くなったなという実感があります。それが僕に求められているプレーなのかどうかは分からないですけど、プレーの幅が広がりました。『今日はちょっとゲーム展開が荒れているな』とか『急いでやってるな』と思った時には落ち着かせたりすることもできましたし、守備の部分で戻るとか行くという部分もできてきた実感はあるので、新たな自分が発見できたと思っています」

高校3年間がいまの自分を作り上げてくれた
——今後に向けても楽しみです。ところで、セルティックではいま背番号『41』を着けていますよね。ずっと家長昭博選手のイメージがあったのですが、今回『ゲキサカ』の過去記事を読んでいると、静岡学園高時代のプレミアリーグWESTデビュー戦で41番を着けている写真を目にしました。もしかして背番号にはこの時のことも影響していますか。

「もともと僕は(川崎F時代と同じ)47番を着けたかったんです。何度か取材で話したことがあると思うんですが、高校時代の練習試合用ユニフォームでずっと着けていた番号で、思い入れがあったので。ただ47番は他の選手(18歳の生え抜きDFデーン・マレー)が着けていて、その時に41が空いていて決めました。もちろん2年間同じチームでやらせてもらった家長選手が着けていた番号で、僕の中で憧れというか、あの人のプレーはすごいなと思っているので着けたいというのもありましたし、トップチームに初めて入った時の背番号というのもありました。そこはずっと秘めていて、誰かに言われたら言おうとは思っていたんですが、実はそういう思いもありました」

——疑問が解けました。あらためて感じたのですが、旗手選手にとって静岡学園で過ごした日々ってとても大きなものなんですね。
「たらればですけど、僕は三重出身なので四中工(四日市中央工業)があったんですが、もし四中工に行ってたらここまで来られていないんじゃないかなとも思います。いや、わかんないですよ。もしかすると四中工でもっとすごい選手になってたかもしれないですし。でもそれくらい静学での3年間はいまの僕を作ったところだなと思います。精神的にもそうですし、技術的な部分もそう。僕は高校3年間がいまの自分を作り上げてくれたと思っています」
プレミアリーグデビュー戦のMF旗手怜央(写真左)
——高校3年間での経験がヨーロッパでの日々につながっていると感じることはありますか。
「サッカーの部分はボールをとにかく触るとか、技術を磨いてきたところが一番大きいです。あと生活面でも、相当苦しい高校1年生の寮生活を経験してきたので、多少のことは我慢できる部分があります(笑)。実はこっちに来てから、1か月くらい家がない生活をしていたんですよ。通訳さんがいたので家に居候させてもらっていたんですけど、その経験もいまになったらいい経験だったなと思えているので、そうやってポジティブなほうに持っていけるのは高校3年間が影響しているのかなと思います」

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