1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

白井貴子さんが語るモントリオール五輪女子バレー「金メダル」と“ひかり攻撃”誕生秘話

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年7月24日 9時26分

 京都の有名な接骨院の先生に診てもらったら先生に「あと3日遅れていたら腕がダメになっていた」と怒られ、先生のもとで1カ月ほどお世話になりました。

 倉紡は日本リーグの下の実業団のチーム。その頃4連敗し、日本リーグとの入れ替え戦には後がないというところまで追い詰められていた。それでまだ腕が半分くらいになっている私に試合に出ろという。腕に添え木をし、紫色になっている手に手袋をつけて。相手はレシーブできない私を知って狙ってくる。レシーブをすると添え木に当たってポコッと音がしてドリブルを取られる。仕方なくセッターをやって、左手をかばいながらどうにか勝ちました。

 それから倉紡は6連勝して日本リーグ入り、私は倉紡からたった一人日本代表のヨーロッパ遠征で出かけました。ところが、帰国したら白井監督がクビになっていた。私は監督に憧れて養女にもなっていたから、いない間にクビにされて納得できない。また、辞めることばかり考えていました。

 その時に「辞めるのはいつでも辞められる」と誘ってくれたのがユニチカの監督で72年ミュンヘン大会の小島孝治監督です。決勝戦の相手はソ連です。日本は負けていて、私はその日、肩の調子がいいので、4セットの時にコーチを呼び出し「試合に出してください」と直訴。途中から出てそのセットは勝ち、監督から「ビック(愛称)、5セットはおまえ、レギュラーでいくぞ」と言われて出たけど、ソ連には負けて銀メダルでした。

■「コートで死にたい」という山田重雄監督に「勝手にどうぞ」

 大会後は引退して辞めると決めていたから倉敷に帰りました。10カ月くらいは家にいました。そんな時に白井監督とは飲み友だち、麻雀友だちの山田重雄さん(日立の監督、76年モントリオール大会の代表監督)が岡山にやってきて。実は私が17歳の時、山田さんから岡山で行われた練習試合の後、うちの内情をあれこれ聞かれたことがありました。そんな縁があったので、その後しばらくして私から山田さんに連絡を取ると、ワールドカップの予選を戦っていた前橋に「すぐに来い」と言う。行ってみたらいきなり記者会見です。「白井貴子、日立入り」と大々的に報道されてビックリ。あの頃はとにかく想像もできないことの連続でした。

 山田先生の構想は私と釧路商業の選手で日立に練習に来ていた松田紀子さんを中心にチームをつくること。松田さんは元はアタッカーですが、168センチでアタッカーとしては背が低くて戦力外だった。ただ、その頃は日立にたまたまいいセッターがいなくて、結果的に松田さんに白羽の矢が立った。それで白井、松田のコンビで戦う構想が山田先生の中で固まったんです。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください