1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. 経済

父を憎み、わが子は幽閉…教科書には載らない「武田信玄」の本当の姿【日本史の裏常識】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年3月6日 12時0分

写真

(※写真はイメージです/PIXTA)

その武勇伝や伝えられる人柄から、今も人気を集める戦国の武将たち。しかし、最近明らかになった人間関係や行いからは、いち武将としての勇猛さとはまた違う、一人の人間としての別の側面が見えてきます。天下を取るためならば親も子もない……そんな戦国時代に活躍した武将の意外な側面を『「日本史」の最新裏常識 目からウロコの100』(宝島社)から見ていきましょう。

父を追放し、子を死に追いやった「修羅の生涯」

名将、仁の人として知られる甲斐の武田信玄。彼もまた、親子関係には恵まれない人物であった。信玄は、父親の信虎に疎まれ、父親を憎んでいたという。あるとき、信虎を同盟国である今川家との国境近くで拉致し、今川家の本拠の駿河に放逐している。その後信虎は出家して「無人斎道有」などという号を名乗っているが、彼は隠居の立場をそれなりに受け入れていたものと思われる。

今川家中では、娘が義元の正室であるため、「御舅殿」と呼ばれて扱いも悪くはなかったようだ。行動にもかなり自由があり、京都に上ることも多く、将軍家とも交流を持っていたという。晩年は甲斐に戻り81歳まで生きた信虎は、息子に国から追放されたとはいえ、決して不幸な生涯ではなかったといえるだろう。

今川攻めで対立した嫡男義信を幽閉

小説などでは織田信長のライバルとして描かれる武田信玄であるが、信玄と信長は長い間同盟関係を保ち、対立したのは徳川家康と信玄が敵対関係になって以降である。

実は、家康と信玄も同盟関係にあった時代がある。今川義元が桶狭間で信長に討たれると、今川家に従っていた家康は三河で独立。信玄と連絡して、ともに今川家の新当主の氏真を攻めるという形で両者は手を結んでいる。

信玄の嫡男である義信の正室は、今川義元の娘であり、義信は、氏真とは義兄弟ということになる。義元が討たれ、今川家が弱体化したからと、これを攻めるというのは、人の道、義に反したことであると義信は主張し今川攻めに反対した。

しかし、豊かさをもたらす海を欲していた信玄は、今川攻めに反対している息子の義信を幽閉し、その2年後に義信は幽閉先で自害して果てている。信玄に、義信を殺すつもりがあったかは謎であるが、2年もの間、殺していないところから、命までは取らないつもりでいたように思われる。

義信の正室は、義信が死んだ後に駿河に戻されている。つまり義信が生存中は甲斐に留めおかれていたことになるのだが、そうであれば、信玄には、いつか義信を許すつもりがあったと推測すべきであろう。実は信玄は、家族愛を誰よりも強く欲していたのではないだろうか。

上杉謙信、繰り返される関東出兵は奴隷狩り

低い身分の足軽は、戦場で戦ったところで所領をもらえるわけでもなく、戦に勝っても褒美をもらえるのは侍身分の者だけである。では、足軽たちにとってメリットが何もないのかというと、実は彼らには彼らなりの楽しみが許されていた。いわゆる乱暴狼藉、乱取りである。敵地の村落の財物を奪い、そして人々を狩り出して奴隷として売ることで、彼らは個人的利益を得ていたのである。

奴隷として売られる農民たち

武田信玄が信濃を攻めた時、城兵は皆殺しにし、そうでないものはすべて、金山での坑夫や娼婦、奴婢として売るなどしたという記録がある。

信濃の志賀城(長野県佐久市)を武田軍が攻めたときの話である。討ち取った首3千余を城の周囲に並べ、落城した後は、城内の女子供や農民は甲斐へと連行され、奴隷として売られている。

信玄は最終的には勝利して得た土地を領土とするつもりでいるため、降伏した者には穏やかな対応をすることが多かった。志賀城での残虐行為は、あくまでも見せしめのためのものである。甲斐に連行してから奴隷として売ったのも、彼らが各地に行って武田の強さと怖さを言いふらすことを想定してのこと。

しかし、義将と呼ばれた上杉謙信にはそれがない。連年、関東へ出兵していた謙信は、戦に勝ちはするが領地化はせず、すぐに越後へと戻っている。

ある研究者は、謙信にとっての関東討ち入りは越後の農民の農閑期の経済対策としての出兵であったとしている。だからこそ、戦に勝ってもその地を放棄してしまうし、農民や町人は、捕まえて奴隷として売りさばいたのだと。

下野の小田城を謙信が攻め落とした後、謙信の命で市が立てられたが、そこでは20文から32文で人が売買されていた。

安いのは、身内が買い戻せる金額がこのあたりだからである。関東での奴隷売買は、身代金目的の拉致といった側面もあったようである。また、奴隷に食べさせる食糧もただではないので、すぐに買い手が付く値段にしているのである。さらにいえば、合戦が多く奴隷がたくさん売られ過ぎているため値崩れしていたという面もある。

日本史研究会  

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください