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無理に動かなくていい、それどころか何もしないのが一番いい…中国の思想家〈老子〉に学ぶ「心穏やかになる方法」

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年4月22日 11時0分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

老年期には老年期ならではの心の変化があります。不安、怒り、ストレス、孤独、無気力……誰もが大なり小なり感じていると思いますが、悪化すると精神面に支障をきたしてしまいます。こうした負の感情とどうやって向き合っていけばいいのでしょうか? 今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、古代中国の思想家の老子が考えた「心穏やかになる方法」を解説します。

無理にさからわず、水のように生きる

人はなぜ心を病むのでしょうか? 最大の原因は無理をするからです。身体もそうですし、物だってそうだと思いますが、本来のキャパシティを超えて酷使すると壊れてしまいます。

心でいうと、本当はやりたくないことを無理にするというのが、一番よくないのです。本来あるべき自然なかたちを大事にする。これは老子の思想の根幹にあるものだといっていいでしょう。だから老子はこういいます。

上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に幾し。(『老子』岩波文庫、P39)

その意味するところは、「物事の最善のあり方は水のようなものだ」ということです。水はあらゆるものに恵みを与えて争うことなく、また誰もが嫌だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ、というわけです。

道というのは、中国語読みすると「タオ」に近い発音になります。いわゆるタオの思想のことです。老子の掲げる宇宙の原理のようなものです。私たちは皆その宇宙の原理にのっとって存在しています。

そういうとなんだか不思議な感じがするかもしれませんが、私はこれを自然法則のようなものとして捉えています。だとすると、水のようにさからわない生き方が道に近いというのもよく理解できると思います。

考えてみれば、私たちが心を病んでしまうのは、人や物、そして世の中にさからうからです。典型的なのは、意見の食い違いでしょう。建設的な議論はいいですが、不毛な言い争いは単に精神を消耗するだけです。目の前に遮る石があるなら、水のようによけて通ればいいだけのことです。何も無理に抵抗する必要はないのです。

年を取ると頑なになりますし、経験から周囲にあれこれいいたくなります。そこをあえて気にしないようにするのが疲れず生きるコツです。若い人とは考え方が違ったとしても、実害がない限り自分は水だと思って、受け流すのがいいでしょう。

満ち足りようとしない

そして何よりさからってはいけないのは、自分自身です。これは意外と気づかないのですが、人生において最もてごわいのは、自分自身です。にもかかわらず、人は自分自身にさからっていることに気がつきません。そうして知らず知らずのうちに心を病んでしまっているのです。

つまり自分の本心に気づかず、無理をしているということです。とりわけ私は、嫉妬、完璧主義、後悔が自分に対する三大無理なことだと思っています。人間は万能ではないにもかかわらず、そうした欲望がその事実を忘れさせるのです。

老子のいうように、道すなわち自然法則を体得していれば、そのようなことはしないはずです。彼はこういっています。

此の道を保つ者は、盈つるを欲せず。夫れ唯だ盈たず、故に能く蔽れば新たに成る。(前掲書、P67)

「この道を体得している者は満ち足りようとはしない。そもそも満ち足りようとしないから、壊れてもまたできあがる」。老子がいいたいのはそういうことです。満ち足りようとしてはいけないのです。なぜならそれは不可能だからです。

自分よりうまくいっている人と同じ状態になりたい。これは嫉妬ですね。でも、そんなことを思っても簡単になれるわけではないでしょう。そもそもなれるなら嫉妬など抱きません。それに、上には上がありますし、欲望は際限のないものですから、嫉妬を抱き始めるときりがありません。

完璧主義はもっと私たちを苦しめます。人間という不完全な存在が、完璧になれるわけがないのです。常に100点満点を目指すことほど苦しいことはないでしょう。それは無理なことです。

後悔というのもまた、無理なことを求めています。済んでしまったことはもう仕方ありません。長く生きてくると、後悔することは増えていきます。それをいちいち思い出して悔やんでいたら、それは日々心を痛めつけるのと同じことになります。

こうした態度を改めれば、心を病むことはないでしょう。いや、人間ですから、失敗はつきものです。時に無理をしてしまい、心を病むことだってあるかもしれません。ただ、満ち足りることさえ望まなければ、少なくとも心は回復していくに違いありません。

老子が、壊れてもまたできあがるといっているように、幸い心には回復する機能が備わっているのです。

身体をいたわれば心も癒される

この時、薬で心を癒そうとする人もいます。それも最後の手段としては必要なのだと思いますが、老子が勧めるのはもっと別の方法です。

それは身体をいたわることです。やはりなんといっても心と身体はつながっていますから、身体を大事にすることで、心も癒されていくのです。少し難しい表現ですが、老子はこんなふうにいっています。

営魄を載せ抱一させ、能く離すこと無からん乎。(前掲書、P45)

これは、「心と身体とをしっかり持って合一させ、分離させないままでいられるか」という意味です。心と身体は車の両輪のようなものであって、両者がしっかりと噛み合わないことには、人は前に進んでいくことはできないのです。

逆にいうと、両者は一体のものであって、いずれか一方が弱れば、もう片方をいたわることで全体が回復するのです。休息は身体にとっても、そして心にとっても最高の薬だと思います。

人間はだんだん年を取るものです。だから自分の衰えに気づきません。何か大きな病気やケガをして初めて気づくのです。あるいは他者から客観的に指摘されて初めて気づきます。でも、その時はたいてい遅いのです。そうならないように、だんだん休息の時間を増やし、その質を高めていくのがいいでしょう。

まだ大丈夫、若い者には負けないといった気概は大事ですが、実は心にとっては大敵なのです。年を取るごとに身体は思うように動かなくなるものです。それはもう仕方のないことです。それこそが自然法則なのですから。だとすると、その自然法則にさからってはいけないのです。

動けなくなるのを実感するたび、人は抵抗しようとあがきます。無理をするのです。一つは悔しいからでしょう。その根底にあるのは、死への抗いなのかもしれません。このままだんだん動けなくなって、最後は死んでしまうのではないかと。無意識のうちにそうした恐れが生じ、無理に動こうとするのかもしれません。

ところが、老子にいわせると、動かないことはむしろいいことなのです。いわゆる「無為自然」という四字熟語で知られる老子の思想の本質です。私たちはつい動こう、何かしようとあがいてしまいますが、本当は動かないどころか、何もしないのが一番いいといいます。それによってすべてのことを成し遂げているからです。

一見矛盾しているかに思える表現ですが、決してそんなことはありません。何もしなくても物事は展開していきます。自然が求めることだけをすればいいのです。

その意味では、まったく動くなということではありません。余計な動きや、無理な動きをしないということです。むしろやりたいのにやらないのは、よくないでしょう。散歩に行きたければ行く、食べたいものがあれば食べる。それが自然な動きであり、無為自然なのだと思います。日々そうした行動を心がけていれば、心を病むこともないでしょう。

年を取って、ある程度身体が病むのはさからえません。どこかにガタが来るものです。それもまた自然なことです。でも、心まで病む必要はありません。

年齢にかかわらず、心はいつまでも健康なままでいられるものなのです。そのためには心がけが重要です。そんな時、中国で長年にわたって受け継がれてきた老子の思想が、言葉の健康法として役に立つに違いありません。さあ、今日も心の求める快適な一日を送りましょう。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者

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