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リアル・マイケルジャクソン [Vol.61]_1998年 in 東京_マイケルとの初電話。 ~おっかけOL3人組とマイケルの交流実話~

インフォシーク / 2013年11月7日 17時30分

1998年7月、来日時のマイケルと。

10月25日、わたしたちは、「キックボクシング・オールスター戦」の会場となる両国国技館へと足を運んだ。キックボクシングとはおよそ縁がないであろう、大勢のマイケルファンが同様に会場へと向かう。この日、スペシャルゲストとして空手の演舞を披露すると発表されていたマイケルは、体調不良と仕事のスケジュールを理由に欠席。セキュリティー兼マネージャーであるウェインが、マイケルのメッセージを携えて来日していた。

実際に会場に入り、中央のリングや客席の様子をみて、わたしたちはつくづく思った。格闘技という世界とも、この場所が醸し出す雰囲気とも、あまりにもマイケルはかけ離れている。世界のエンターテイメントの頂点にたつマイケルジャクソンに、このオーダーが出されたのは、何かの手違いか間違いだったのだ!(と思いたい)

イベントの開始前に、会場内をうろうろしていると、通路の向こうにウェインが立っているのが見えた。声をかけようと近づくと、誰かと携帯で話している。そのまま話し終わるのを待っていると、ウェインがちらりとこちらを見て、電話の相手に向かって「いま、目の前に"D-PARTY"がいるよ」と、わたしたちのことを説明している。(?誰と話しているんだろう?)そして、おもむろにウェインはわたしたちを手招きし、携帯を差し出してこう言ったのだ。

「マイケルが君たちと話すと言ってるよ!」

一瞬、なにを言われているのかピンとこなかった。近くにいたEちゃんが反射的に携帯を受け取る。

「ハーイ」

声の主は、間違いなくマイケルだった。ソフトでよく通る声が、ダイレクトに耳元で聞こえてくる!日本とアメリカの物理的な距離感を一瞬にして飛び越えたような、不思議な感覚をわたしたちは味わった。いま手のひらにあるこの携帯が、確かにマイケル本人とつながっているのだ!

なんの心の準備もないままに、わたしたちは代わる代わる電話に出て、マイケルとこんな会話を交わした。

「ハーイ、マイコー!」
「ハーイ、E」
「ハーイ、Y」
「ハーイ、K」

「マイコー、いまどこにいるの?」
「いまネバーランドにいるよ」

「体調はどう?大丈夫?」
「うん、もう大丈夫だよ。ありがとう」

「プリンスとパリスは元気?」
「2人とも元気だよ!今度会ったらプリンスとパリスにキスしてあげてね」

「マイコー、わたしたちもいつかネバーランドに行きたいな」
「もちろん!君たちは必ずネバーランドに来なくちゃ」

「マイコー、ウィーラブユー」
「アイラブユートゥー」

「マイコー、次はいつ日本に来てくれる?」
「すぐに行くよ。きっとね!」

とても短い時間だったけれど、わたしたちは、本人に会えたのと同じかそれ以上の感動を味わっていた。まさか、ネバーランドのマイケルと、直接話すことができるなんて!

電話って、こんなにもパーソナルで、親密な感じがするものなんだ。いつもより少し低いトーンで、落ち着いて聞こえるマイケルの声。もっともっとマイケルに言いたいことも、聞きたいこともたくさんあったけれど、ウェインに携帯を戻すように言われ、わたしたちは慌ただしく別れのあいさつをする。ああ、このまま携帯をもって逃亡したい(泣)でも、それをしないとわかっているからこそ、ウェインも個人情報満載の携帯をポンと渡してくれるのだ。

そのあとウェインは2~3分の間マイケルと話して電話を切った。わたしたちは、予想外のサプライズに感激し、何度もウェインにお礼をいった。そして、いつの日かみんなでネバーランドに行けることを、心の底から願った!

ちなみに、この頃わたしたちは、マイケル一行から"D-PARTY"という愛称で呼ばれていた。その由来は、96年の「HISTORY TOUR」に遡る。当時、ツアー関係者は、役割に応じてグループ分けされており、2機の専用機や宿泊先のホテルなどは、すべてグループ単位で配分されていた。

マイケルとセキュリティー、身の回りの世話役のごく数名が「A-PARTY」。ビデオクルー、ダンサー、シンガー、バンドメンバーなどが「B-PARTY」。ステージの設営スタッフやケータリングスタッフなどが「C-PARTY」。

当時、アジアやオーストラリアをひたすら追いかけていたわたしたちは、「どこにでもいるから」という理由で、一部のスタッフから「D-PARTY」と呼ばれていたのだ。

それに気をよくしたわたしたちは、ツアースタッフのIDをまねた「D-PARTYパス」をジョークでつくり、いろんなスタッフに見せて笑いをとろうとした。

すると意外にも、「イエス!」「君たちはどこにでもいるからね」と、みんなあっさりと納得してくれるではないか!

ついに、ウェインやマイケルにもその呼び名は伝わり、ツアーが終了したあとも、そのまま「D-PARTY」と呼ばれることになったのだ。

話は戻り、1998年の2度の来日騒動は、こうして幕をおろした。そして、このあと日本でのビジネスは、いくつかのプランが始動したものの、徐々に立ち消えとなっていった。大々的に発表されたテーマパークの建設は実現せず、トイショップの実店舗がつくられることもなかった。「すぐに日本に行くよ!」と話してくれたマイケルが、次に別件での来日を果たすまで、実に8年もの月日が流れたのだ。

一方で、この頃のマイケルの周囲では、韓国・ドイツでの、ある「BIGイベント」の計画が着々と進行していた。

【バックナンバー】リアル・マイケルジャクソン ~おっかけOL3人組とマイケルの交流実話

パリス川口
コピーライター。87年来日時にマイケルのファンとなり、OL時代、同じくOLの友人とともに世界中を追いかける。96年HISTORY TOURを機に、3人は「D-PARTY」(ファミリーの意)と呼ばれ、世界各地でマイケルに会えるようになる。追悼式から3年を経て当時のエピソードを公開。

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