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成功と失敗の分かれ目:経験主義による分析/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2018年9月25日 6時31分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

/どうすれば成功し、どうすれば失敗するのか。デカルトは、理性の使い方が違う、と考えた。しかし、ロックによれば、妙な人たちだけで集まって、妙なことばかり聞いたり、言ったり、やったりしていると、理性の常識そのものがズレる。そして、ヒュームに言わせれば、我々は、そのズレた常識を妄信して、自縄自縛に陥る。/


成功者と失敗者

なぜ現実の人間は、それぞれに違うのか。それが近代哲学にとっての中心問題だった。中世までは、それは大したことではなかった。神が個々の人に使命と試練を授けた、で済んだから。ある人は、生まれながらに王で、政治的課題に取り組む。また、ある人は、生まれながらに貧乏で、生活の困窮と戦わなければならない。しかし、そういうものだ、と思ってしまえば、そのことそのものを疑問にも思わなかった。

ところが、近代になると、だれでも、何にでもなれるようになった。生まれに縛られず、フランシス・ベーコンのように、下吏から大法官にまで立身出世することもできるようになった。だが、こうなると、成功する人と、失敗する人との差が明白になる。どうすれば成功し、どうすれば失敗するのか。

金持ちが計算しても、貧乏人が計算しても、天才が計算しても、凡人が計算しても、1たす1は2。つまり、理性は万人に平等に与えられている。ただ、デカルトは、成功する人と、失敗する人では、理性の使い方が違う、と考えた。つまり、失敗する人は、理性を使っていない、もしくは、使っても、使い方がまちがっている、と言うのだ。

懸命に競馬新聞のデータ分析をしている人、それどころか、数字クジのこれまでの当選番号から次の当選番号を予想しようとしている人。まさに人生と知能の無駄遣いだ。そんなことに、いくら合理的に努力したところで、意味が無い。株式市場のデータ分析でも、一発当てた人の講演会で感心しているのも、似たようなもの。過去がどうあれ、未来は変わる。成功者と同じことをしても、失敗した人は、掃いて捨てるほどいる。

となると、成功した人にしても、デカルトの言うように、ほんとうに、理性を使って合理的に努力したから成功したのか。不合理なことをやっていては成功しない、というのは、確かだが、ここから、合理的なことをやっていれば成功する、などということは、それこそ論理的に証明できない。


常識が怪しい

英国の医師、ロックは、生まれながら万人に平等に与えられた理性、などというデカルトの前提に噛みついた。その前提は、多分に神学がかっている。むしろロックは、人間に、生まれながらの理性など無い、タブララサ(ホワイトボード)だ、とした。ただ、人間は、多くの経験を積むうちに、だれもふつうは平準化する。そして、それらの経験から帰納法で一般法則を掴み取れば、だれもがほぼ同じような常識を持つことになる。その常識を、理性とか、言っているだけ。

いまの時代に、ふつうに暮らしていれば、平等や公正は当たり前。ところが、妙な人たちだけで集まって、妙なことばかり聞いたり、言ったり、やったりしていると、その人たちの中では、たとえば、女医は使えん、いらん、とかいうのが、「合理的」判断だったりする。知人友人を優遇したり、上場会社をバカ息子、バカ娘に世襲したり、ズレている人は、珍しくもない。

しかし、だからこそ、政治が必要だ、と、ロックは言う。人々の勝手な「常識」に任せておいたら、なにをするかわからない。だから、理性同様、天賦の王権など無いが、とりあえず、国王なり、大統領なりに、社会契約として「常識」の整理を委ねる。しかし、その国王や大統領が国民の「常識」から逸脱するなら、革命も認められる、というのが、ロックの言い分。とはいえ、これも、政治家たちの「常識」と、国民の「常識」が乖離することもあり、国民の中でも、奴隷制を巡ってのように、内戦になることもある。


妄信の自縄自縛

ヒュームは、ロックの経験帰納法を、もうすこし精緻にし、人々のズレがどこから生じるか、探究した。我々の意識には、外的な経験の印象と、内的な思惟の観念があり、認識というのは、印象と観念が同時に重なって意識されることだ、と言う。そして、内的な思惟の観念は、それ自体の内容によって、類似や反対、程度、数量が連合する。この部分は、よほど観念の経験的な内容に偏りがないかぎり、万人に共通だ。

他方、同一や位置、因果は、実際の外的な経験を介してのみ、結合する。これらの要素は、それぞれ別のカテゴリで、その内容に直接の関係が無いにもかかわらず、ひとつの経験であったがゆえに、ひとつに結合させられる。たとえば、昨日、山へ行った、ということにおいて、昨日というのは時間であり、山というのは場所であり、昨日を分析にしても、山とは関係が無い。同様に、山を分析しても、昨日は出てこない。ただ自分が昨日と山を同時に経験することにおいてのみ、両者が結びつく。

つまり、同一とか、位置とか、因果とかは、万人共通の「常識」たりえないのだ。いや、因果は、常識だろう、と言うかもしれないが、ヒュームからすれば、それらは、たかだか接近性や連続性を何度も経験したというだけで、ものそものの因果的な必然性そのものを我々は知りえない。たとえば、車のエンジンの動きとタイヤの回転があると、我々は、エンジンの動きがタイヤを回転させている、と思っている。だが、実際は、坂道などでは、エンジンブレーキとして、じつはタイヤの回転がエンジンを動かしているのだ。

因果など、人の信念にすぎない、と、ヒュームは言う。たとえば、円高で輸出が滞ると日本経済は破綻する、などというのは、西へ行くと大地大海のヘリから落ちて煉獄の炎に焼かれる、というコロンブス以前の中世の迷信と同様、やってみてもいない妄想にすぎず、事実としての因果法則でもなんでもない。基地が無くなればハッピーになれる、とか、資格さえ取れば仕事が見つかる、とか、世の中は、こんな妄信だらけ。そして、政治も、業者も、そういう妄信を煽って商売している。

近代では、成功する人と失敗する人がいる。だが、それは、たんに理性の使い方がまちがっているからだけではなく、その理性そのものからして、形成段階で、かなり怪しいのだ。育ちのいい人は、よい経験を積んで、穏当な常識を身につけ、無難に世を渡る。一方、運の無い人は、ハチャメチャな経験に翻弄され、そのせいで、むちゃくちゃな「常識」を妄信するようになり、その間違った「常識」で自縄自縛に陥って、本人は懸命に努力しているのに、いくらがんばっても、まったく報われない。

そもそも、成功とか、失敗とかいう観念からしてそうだ。経済的には「成功」しているのに、人間として破綻して、不幸な人生を送っている人は少なくない。残念ながら、そういう人は、なにが人生の「成功」なのか、常識的な理性の形成に失敗した結果なのだろう。いや、常識的な理性がないからこそ、経済的に成功したのかもしれない。どちらが原因で、どちらが結果か、知らないが、あまりそういう人になりたくはあるまい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)


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