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私も障害者だ/川口 雅裕

INSIGHT NOW! / 2016年7月29日 11時0分

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川口 雅裕 / 組織人事研究者

私たちが「障害者」と言うとき、それは法で定められた障害の認定基準に該当している人たちのことを指している。もちろん、障害者福祉や障害者雇用などを進めていくには障害者であるとする基準が必要だが、しかし、だからと言って人間を「障害者」と「健常者」の二つに分けることができると考えるのは大きな誤りである。

人には、得意・不得意や適性というものがある。どんなに頑張っても上手にできないことや弱点は、誰にでもある。これらがたまたま社会生活を送るのに大きな影響を及ぼさないと考えられ、従って障害を認定する基準にも該当しないから、「障害者」とは認められないというだけだ。当たり前だが、障害者にもできることはたくさんあり、健常者にもできないことがたくさんあって、可能・不可能、得意・不得意は障害者であるかどうかに関係なく、まだら模様のようにきわめて複雑なのである。

右手の先を失った人に出来ないのは、左手に荷物を持ったままドアノブを回すことくらいだ。聴覚障害でつまらぬ情報が耳に入らない人は、気が散らず、集中力が途切れないから作業がコンスタントで早い。よく知られるように、視覚障害者の記憶力は抜群だ。一方、とんでもない不器用、ひどく足が遅い、からっきし数字に弱い、体型や容姿の美醜、激しすぎる喜怒哀楽、過度の人見知り、年をとって人の名前が覚えられない、同じ話を何度もする、同じようなミスを何度も犯すといったことは、どこかに障害を持っているからかもしれない。要するに、私たちは皆、何らかの障害を抱えているのだが、それが法の定める障害の基準に該当しないから「健常者」とされているだけなのである。

このような多様性を無視し、「障害者」というレッテルを貼って画一的に見たり、扱ったりすることを差別という。だから、排除などの具体的行為だけでなく、弱者と位置付け、かわいそうだと考えて、一方的に助け・支えるようとするのも差別に当たる。皆がそれぞれバラバラに得意なことと、障害や適性がないことを持っており、だから互いの欠点を補い合い、さらに各々の得意分野でのパフォーマンスをシェアできる。このような多様性こそが社会や組織を形成するメリットであり、その強さの度合いを左右する。全員が同じ能力と適性なら、集まっても意味はない。

もちろん、周囲が一方的に助け・支えるしかないほどの重い障害を持つ人もいる。しかし、日々、多くの人達や社会に助け支えてもらっているのは、皆同じで、広い目で見ればお互いさまだ。私達はそれぞれに多様な障害を持っており、助け支えあるいは活かしあいながら暮らしている。従って、「障害者」とレッテルを貼り、弱者扱いしたり、排除したりすることは、たまたま「健常者」と呼称されている者の勘違いと傲慢であり、自身の障害から目をそむけ、自分より弱い者を作って安心したいそれこそ弱者ということになる。

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