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「朝倉未来VS.平本蓮」で“THE MATCHの視聴数”を超えるか RIZIN代表に聞くPPVビジネスの原点

ITmedia ビジネスオンライン / 2024年7月20日 13時58分

 「昔から楽しいことを考えるのが好きでした。真夏にスーツを着て出社したくなかったので、海のイベントを地元の街に提案して、スポンサーもつけて開催したり。いろいろなアイデアを考えては仕事につなげていました」

 そんな榊原氏に転機が訪れたきっかけは1993年に日本で産声をあげた立技格闘技イベント「K-1」の第1回大会を見たことだった。榊原は当時29歳。ピーク時には国内地上波3局と135カ国でテレビ放映をするなど日本の格闘技ブームをけん引した。

 「ヘビー級の男たちが真剣に闘う姿が当時はとても斬新でした。これは、ぜひ(自社がある)名古屋で開催したいと思い、(K-1創始者の、正道会館)石井和義館長を紹介してもらいました。そして1994年12月に、K-1として初の地方大会を名古屋で開催したのです」

 榊原氏は、K-1名古屋大会の興行権と放映権を獲得。加えて、ほぼ協賛スポンサーとチケット収益だけで興行していたK-1で、新たなマネタイズの方法を考案した。例えば今では当たり前になっているリングマットやコーナーポストなどへの広告掲載である。

 「1対1の男同士の闘いはきっと若い人たちも興味を持つだろうと思いました。K-1をテレビ番組にして提供社をつけ、スポンサー料の他、リングマットやコーナーポストなどの広告枠を作って、これらを組み合わせて売ることを始めました」

 当時の格闘技興行の収益には、興行権料と、大会を収録したビデオの販売などがあった。初めてのテレビ放映に加え、リングやコーナーポストに広告枠を作るビジネス手法は当時、珍しかったのだ。この頃から榊原氏はプロモーターとしての才覚を発揮し始めた。

 「当時は誰も格闘技をテレビで放送しようなどとは考えていませんでした。東海テレビという在名広域局ではありましたが、深夜に(K-1を)テレビ番組化してスポンサー料などを得るビジネスモデルを構築したのはわれわれでした。この大会で初めて、リングマットやコーナーポストに協賛企業のロゴを掲載したのです」

 こうして榊原氏の格闘技ビジネスにおけるキャリアはスタートした。最初から格闘技を主催する興行主としてではなく、あくまで放送局の社員として、一歩引いた立場でビジネスとして見ることにより、既成概念にとらわれないマネタイズを実現するに至ったのだ。これがのちにキー局であるフジテレビでのK-1放映にもつながり、テレビ局内でもスポーツコンテンツとして扱われるようになった。

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