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商社マンからスポーツ心理博士へ セカンドキャリア番外編

Japan In-depth / 2016年5月2日 23時0分

すでに、今年のチーム作りにも参画して、新たなゴールを目指している。


東京六大学野球で、法政大に二連勝して好スタートを切った慶大硬式野球部のチーム作りにも携わっている。明大戦では四連戦の死闘を戦い抜き、勝ち点を落としたものの、また、チームを立て直し、調子を上げてきていた東大にはきっちり二連勝。


オフには、慶大内部の他の体育会の人間も交えた話し合いをさせたりもする。「活気溢れた、良いミーティングが出来るのですよ」と、垣根を越えたチーム作りも積極的に取り入れる。


転機


日本でのこのジャンルの第一人者である布施。だが、最初に渡米した時は、


「商社でも関連会社を作るなどエキサイティングな仕事をしていたので、この感じをスポーツというフィールドでも、実践出来ないかと思い立ったのです」


企業人として走り続けた布施は、1998年夏季休暇を取得して、米国に駐在する大学時代の先輩を訪ねた。その先輩が連れて行ってくれたグラウンドに颯爽とブレザー姿で立つ人物がいて、布施が「チームのGMですか?」と、尋ねると


「チームビルディングをしている人間だ」と、先輩が教えてくれた。


そして、 「この仕事は、まだ日本にない。お前に向いているよ。自分にしかできない事をやってみろ」とも。


当時37歳だった布施も「動くなら、今しかない」と、米国でのこの分野でのナンバーワンのノースカロラナ大学グリーンズボロ校を訪ねた。最初は大学院で学びたいなら、日本国内で心理学、スポーツ科学のダブルメジャーが必要と言われた。そのままでは引き下がれない布施は交渉の結果「それに代わるもので、大学院でやっていけることを証明してみなさい」との言葉を引き出した。だが、慶大の文学部出身だった布施が現役時代に学んだことは、ほぼ役に立たなかった。


が、商社での業務の傍ら放送大学を受講し、心理学系の科目ですべてAを取得し再度大学と交渉、修士課程で優秀な成績を取れれば博士課程で受け入れるという条件を引き出すことに成功した。布施は、妻と当時幼稚園年中と1歳だった子供たち全員で渡米した。


「全て自費で賄った訳ですから、駐在員が住むような所ではなく、比較的貧しい地域にしか住めませんでした。子供を地元のサッカーチームに入れようとしても、『あの地域に住む人間を、チームに入れるわけにはいかない』という、雰囲気を感じたこともあった」 貯蓄は目減りしていくし、厳しい時代であった。


それでも、目標に向かって勉強を続け、学んだことを、現地の野球チームなどで、実践していった。試行錯誤だった。ノウハウのフレームワーク、アーカイブ化も出来た。しかし、言葉の問題で壁にぶち当たった。スラングを駆使する選手たちとの深い部分での双方向コミュニケーションは難しかった。そこで博士課程の後半で、将来のフィールドとして日本を視野に入れた。そして、慶大の硬式野球部が、舞台を提供してくれた。


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