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「私にとって台湾は一番目がない二番目の故郷みたいなものです」 失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ2 竹中信子さん

Japan In-depth / 2016年11月22日 18時0分

ただ、日本の場合、世界的には後発で植民地を持ったので、先発の西洋諸国に負けまいと頑張った。台湾の統治には日本人の当時の理想というものをかなり織り込んでいます。そこにはいいこともあったし、悪いこともあった。両方でした。それは人間の営みとして仕方ないと思います。日本人は仕事として与えられたら損得感情もなく忠実にいいもの造ろうとする職人気質があります。台湾の人はそれを理解していました。大きな仕事、大きな事業は、政治による大きな力が支えないとできない。台湾に建てられた大工場やダムや製糖工場は、日本がないとできなかった。

野嶋:竹中さんにとって故郷とは何でしょうか。 

竹中:これはとても難しい問題です。台湾にいたとき、台湾の人から「台湾は第二の故郷ですか」と聞かれたんです。ふっとそのとき思考が止まってしまった。「第一の故郷」があるはずだけど、どこだろうって。台湾は15年しか暮らしてない。日本にはその3倍以上もいたのに、です。

野嶋:戦後の暮らしは、やはり大変でしたか。

竹中:引き揚げは鹿児島から門司港に行きました。父は私が4歳のときに流行性脳脊髄膜炎で亡くなっていて、門司で暮らした4年間は大変で、母も私たちも苦しかった。物思いにふける暇もなかった。家族の一体感はありましたが、生活には追われましたね。見知らぬ門司の商店街の真ん中の狭い路地の奥におんぼろの家を借りて暮らしました。そこは誰かが自殺したので住む人がいなくなったところだと近所の子供たちが言っていました。母は食堂で一日中働いていた。でもね、あたしたちに学校に行きなさいと言い続けました。財産は何かあったら台湾みたいに置いていくしかないが、教育だけは身に付いて離れないからって。お母さんは一生懸命がんばるから、あなたたち、勉強だけはしてくださいといつも言われていました。

当時の私は、そんなものかなあと思っていただけで、近所の奥さんには「あんたみたいな親不孝は見たことがない」と怒られたりしました。経済的理由で私は大学に進学できなくて、母は私に抱きついて大泣きしました。すまない、すまない、あなたに勉強させてあげられなくてすまない、すまないって。その母は91歳まで生きてくれました。そんな母の事を書きたいと思ったのが女性史に取り組んだ始まりです。

野嶋:竹中さんにとって故郷とはどこのことなのでしょうか。

竹中:ほんとうに難しい問題です。東京に出て、結婚して子育てして、東京の大泉や石神井に住んだ。家族も日本にいる。けれど、日本を故郷とは思えない。でも、台湾で日本語は使えないし、親兄弟もいない。でも、台湾の自然や空気は故郷そのものの感覚がある。自分が根無し草のような気がして、自分のアイデンティティは分裂している、私は放浪者だと結論を出しました。

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