パフォーマンス理論 その21 ゾーンについて
Japan In-depth / 2019年7月16日 7時0分
陸上でも人によって好きな準備の仕方は違う。選手によっては発散型の人もいて、いざ本番の時までなるべくいつも通りしていたいという人もいるが、私は内向的だったのでむしろ自分の世界に潜り込んでいく方がやりやすかった。自分の世界に入っていく時に邪魔になるのが顔だ。人間は顔が相手に見えていることを常に意識している。目が合えば話しかけ、表情を見て対応を決める。原始宗教でトランス状態に入る際に仮面を被る儀式は多いが、単純に精霊を模しているというよりも、その状態の方が自分ではない何者かになりやすかったのではないかと思う。顔の情報量は多い。
私にとっての試合前の儀式はトイレに行って能面のような顔を作り、自分の世界に入ることだった。人間は表情で対応を決めているので、そう行った表情を一旦作ってしまうと、人は容易に近づいてこなくなる。私にとってはその表情が社会と自分を分断する為のきっかけだったように思う。ちなみに無駄話になるが、ゾーンの際は自分ではない何者かに化けるのか、または本来の自分が出てくるのかどちらなんだろうと疑問に思っていた。何を持って本来の自分とするかにもよるが。
ここまでくるとあとは委ねるだけの状態に入るのだが、この委ねるところが難しかった。委ねることとは自分をさらけ出すことなので、自我が強い私にとっては自分をさらけ出すことが怖かった。子供が初めて水の中につかって力を抜けばちゃんと浮くといくら説明してもうまく力が抜けないのに似ていて、恐れと危険の区別が初めはつかない。一つ一つ玉ねぎの皮をむくように自分の恐れ(社会的に取りたいポーズ)を解いていき、徐々に自分を委ねることができるようになった。とはいえ、他人と比べ比較的この委ねる行為は得意だったように思う。余談だが、ナルシストの選手は委ねることができなくて苦しんでいるように見えたが、他人の目が気にならないほどのナルシストはむしろ勝負強かったようにも思う。この辺りも興味深い。
うまくいった時を例に出すと、自分が二重人格の人間だとして、試合前の準備までは自分がやって、いざ試合の直前に自分の意識をもう一人の自分に明け渡し、相手が行ったパフォーマンスを行い、こちらは身体に残る余韻で悟るというのに近かった。覚えているレース中の感覚は、いつもより少し目線が高く風がすり抜ける感じが強いことと、それから音が小さくなり足音が大きく感じることだろうか。そしていつも300m付近で自分がトップを走っていることに気づいて我に帰り、あとはひたすらに頑張るという感じだった。もしかするとあのままゴールするという世界もあるのかもしれないが、その世界を見ないままに引退をした。
私がゾーンだったのではないかと思う体験は、2001世界陸上決勝、2005世界陸上決勝、それと2008日本選手権決勝の三つだった。いずれも共通しているのは強い緊張、勝って当たり前ではなく勝てたら儲けものであること(期待が高すぎない)、勝った場合に何らかの驚きを他者に与えるもの、であった。私にとってのゾーンは胡蝶の夢の世界に近い。
追記-昔前の僧侶にお話を伺った時に、禅病なるものがあると教えてもらった。それは禅の最中外界との融合体験をしたあとそれを追体験することが目的化することだとおっしゃっていた。ゾーンも似たようなところがあり、あくまでパフォーマンスを高めるためにゾーンはあり、それ自体は目的ではない。
トップ写真)Pixabay Photo by Pexel
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