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『武士道』著者が受けた仕打ち 横行する「危うい正義」その3

Japan In-depth / 2019年11月29日 11時38分

『武士道』著者が受けた仕打ち 横行する「危うい正義」その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)


林信吾の「西方見聞録」


【まとめ】


・新渡戸稲造は武家に生まれながら、英語とキリスト教を深く学んだ。


・新渡戸稲造は見当違いな「正義感」で晩年、不遇を極めた。


・主要な情報伝達手段であるネットでも正確に事実の伝達が肝要。


 


新渡戸稲造と言えば,今や「5000円札の人」であるが、紙幣に肖像まで描かれている彼の生涯についてよく知る人は、さほど大勢いないようだ。


もともとは『BUSHIDO(武士道)』という本の著者として知られていたのだが、これとても


「タイトルくらいは知っているけど……」「聞いたことはある」


といった人が多い。


実は私はこの本を、あまり高く評価していない。


端的に述べるなら、彼自身が武士の歴史とか武士教育によって植え付けられた価値観についてよく知るわけではなく(物心ついた時には江戸幕藩体制が崩壊していた)、むしろ英語とキリスト教文化にどっぷり浸かった日本人として、キリスト教徒に向けて書いた


『ガイジンでも分かるニッポン文化』


といった、ハウツー本みたいな読後感だったからである。


もちろん、100年以上にわたって読み継がれ、この本を読んだことがきっかけで日本文化に関心を持つようになった、という外国人が、かなりの数に上ることは事実で、その功績を評価するにやぶさかではないが。


問題は、この本を書いた人物が、幕末の東北武士の家に生を受け、明治から昭和にかけて生きた日本人としてはきわめて珍しいことに、前述のように英語とキリスト教を深く学んだことと、それゆえ昭和の軍国主義の時代には世間やマスコミから酷い仕打ちを受けたことである。


話を分かりやすくするために、彼の経歴をもう少しなぞってみよう。


1862年、陸奥盛岡(現在の岩手県盛岡市)で生まれ、6歳の年に明治維新を迎える。


その後13歳で上京し、東京英語学校(東京大学の前身のひとつ)で学んだ後、札幌農学校に進学する。ここで、


「少年よ大志を抱け」


の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の薫陶を受け、キリスト教に入信。正式に洗礼を受け「パウロ新渡戸」となった。ちなみに幼名は稻之助といい、上京後に稲造と改めているが、これは昔の武士階級では普通のことであった。



▲写真 クラーク博士像 出典:Free Photos


農学校卒業後、創立間もない東京帝国大学に入り直したが、当時の帝大は農学校に比べて学問の水準が低かったらしく、新渡戸は失望して退学する。


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